文明の本質
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シカは菜園に入りながら、奇妙な動きをしていた。もちろん、1本のツルムラサキ、アオバナ、あるいは第2の自然生えキュウリなどでは「よくもまあ」と思いたくなるほど柔らかい部分を喰っていた。だが、畑中をシカは徘徊し、あれも少し、これも少し、と慎重な食べ方をした様子がうかがえた。 だから私は、中学生時代にヤギを飼ったが、その時のことを思い出した。草刈りをして与えた餌を食べる時と、野山に連れ歩いた時の食べ方は決定的に異なっていた。 例えば、連れ歩いた時は、アセビ(馬酔木)など間違っても食べなかった。だが、刈り取って与えた餌の中にアセビが混じっていた時は、躊躇することなく食べてしまい、死ぬ思いをしている。泡を口から、消火器のように吹き、倒れ、もがいた。 それはどうしてか、と考え込まされるようになった。 その後、体験だけでなく経験まで積むようになり、おぼろげながらに固めていった考え方がある。その想いや考え方が、このたびの2度にわたるシカの侵入劇で思い出され、ついには文明と文化に想いを馳せるまでになった。 実はこの時、妻が朝の収穫で出てくるのを待ち構えていた。だが、出てきた時には、随分私の考え方は変っていた。 これを進歩と見るか、退化と見るか。優しくなったと見るか、怖くなったと見るか。親切になったと見るか、無責任になったと見るか。あるいは、利己的になったと見るか、利他的になったと見るか。さまざまなことを考えた。 そうこうしている間に、人生は文明にココロを売り渡すか、売り渡さずに、文明に疑問を持つかで大きく変わりそうだ、と考えるまでになった。 文明は、まともな人をキチガイにする装置だ。いや、まともな人をキチガイニする装置に満ち溢れた状態を文明と呼んでいる、と見てよいだろう、と気付いたわけだ。そして、まともな人とは何か、と考え始めた。 自然の摂理に乗っ取り、持続可能な生き方から逸脱しない人がいる。その人をまともな人、正気の人と思える人がまともな人、といってよいだろう。だから逸脱した時は、逸脱したことに気づき、反省し、その逸脱がもたらせた弊害を償い、繰り返さないことを誓う人だ。その誓ったことが守れなかったことに気づいた時は、より反省し、その逸脱がもたらせた弊害をより以上に償い、繰り返さないことを誓い直す人だ。かくして、逸脱を減らしてゆき、その度合い沿って秘め持つ自信を深めてゆく人のことだ。 その逆の方向に誘う装置が文明だ。キチガイニする効能を高めるにしたがって、高度な文明と呼びたくなる心境を反省した。その反省に遅れ、古代文明はことごとく破綻し、崩壊したわけだ。近代文明もすでに破綻しており、崩壊の途上にある、との想いを追認した。 文明とはまともな人をキチガイにする装置。何故かこのような煎じ詰め方をした。 |
自然生えキュウリ |