2期作が可能
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今年もわが家の庭の野菜を主に、友人の野菜を交え、妻はお地蔵さんに備える野菜駕籠を用意できた。43回目の他造りのお供えだ。残念ながら今年は、シカクマメなど幾つかの野菜を盛れなかった。 今年は例年のごとく5月に種をまいたシカクマメを、シカにすっかり食い荒らされてしまい、やむなく2期作のごとく遅がけにまき直す羽目になった。それは順調に育ち、ツルを伸ばし始めた。 正常なら、シカクマメの収穫シーズンだが、花もまともに咲いていない。この第2次が上手く育ち、上手く収穫出来れば、これからの展望がグッと明るくなる。「シカさまさま」と、怪我の功名かのごとくに感謝したくなるだろう。そう思った。 キュウリは、今年は第3次まで育てたが、2次と3次は間隔が狭かった。だから、自然生えで育った1本が第3次、と言ってよいだろう。この1本は、畑で私が育てる2〜3本分ぐらいの収穫ができた。だが、これも「ボツボツ(終末期が近い)」と思っていたら、第4次と第5次に相当する自然生えが、それぞれ1本ずつだが芽生え、育っている。 そのうえに妻が、第6次に当たる今頃、何を思ってかキュウリの種をまき、苗を育てていたことを知った。そして、金曜日の朝飯前に畑にでてた私に、その旨を伝え、「畝が必要」だ、と言い出した。私は大喜びして引き受けた。 第2次のキュウリの蔓が既にまいて(終末期に入って)おり、始末する時期になっていた。だから、その畝の支柱はそのままにして残して生かすかたちで仕立て直すことにした。 もし妻が、このキュウリの「初成り」でとった種で苗を育てていたら、まさに2期作ということになる。そう思われたから私は大喜びしたわけだ。 ただし、キュウリは漣作をかなり嫌う。そう思って自然生えの大小3本のキュウリを見直すと、いずれもが畝の中央ではなく、畝の肩、もしくはそれより外側の通路との境目で芽生えていた。畝の中央部の土は、いわばキュウリの既往症状態だ。だから、種が落ちた確率は高いはずなのに、発芽していないのだろう。そう思った。 そこで、畝を仕立て直すについて、ひと工夫凝らした。畝の中央の土と肩の土を入れ替えるような要領で仕立て直し、妻が今頃育てた苗を植え付けることにした。 個の苗は、第1次のキュウリから採った種で育てたのと同じタイミングだ。つまり、これも2期作のキュウリと呼んでよい勘定だ。 実は前日の夕刻にも、私は畑に出ており、その時に妻から「カボチャの苗を2本、友人から」もらったと聞いた。いわばリベンジのカボチャだ。この友人に妻は、2年前にヒョウタンカボチャを1つ差し上げたが、その種から育て続けてもらえている。 肝心のわが家は、妻は取り置く種を間違い、今年はヒョウタンカボチャを育てていない。異なるカボチャを育て、それが収穫期だ。その種で育てたような苗を妻がもらっていたわけだ。私は喜んだ。もしこの苗で、実が収穫出来れば、2つの成果を得たことになる。1つは、今年もヒョウタンカボチャを育てられたことになる。2つ目は、カボチャも2期作が可能だと割ったことになる。でも、と考えた。 早速、摘果期に入ったカボチャを2株ツルごと取り除き、仕立て直し、2本の苗を植え付けた。もちろん、金網もかけた。だが、翌朝、その1本の葉がことごとく食いちぎられていた。だが、1本は無事だった。 これは温暖化のセイであって、喜ばしいことではない。さまざまな弊害にまだ気付けていないだけのことではないか。これも近代文明の恐ろしさ。異常の度合いを高めたことを、文明の高度化と錯覚しているだけではないか。 台風の発生が遅れた今年だが、このところ近海での発生が続いている。これも文明の高度化の証だろうか。新しいビジネスチャンスとなり、GDP向上に貢献するのだろうか。 |
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順調に育ち、ツルを伸ばし始めた |
支柱はそのままにして残して生かす |
2本の苗を植え付けた |
1本は無事だった |
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