時は、バブル現象が現れ始めていた。社長はこの波に会社を挙げて乗ろうとした。売り上げ3000億円計画まで構想し始めた。私は逆に、拡大は自重し、次代に備えた体質転換を提唱し、反対した。
この提唱を私は急ぎ文字に書きとどめ始めた。当時、会社にはまだワープロが1台しかなかったが、秘書の大内さんが手渡す原稿を次々と清書してくれた。それがほぼ出来上がった時に、困った問題に直面した。スケール倍増計画に即して、その過程に仲介する子会社を設立する案が浮上したわけだ。ついに、決断の時が来た。立場上、私が最初に捺印を求められたからだ。捺印し、それを餞別にして、その日付で辞任した。設立自体は悪いことではないし、運用も気を付ければ問題はない。
かくして、ほぼ出来上がっていた会社宛の呼びかけを、日本の国宛に仕立て直すことになった。あらかたの人は、そのころ露わになりかけていたバブル現象を日本の実力と見ていたが、私には一時代の断末魔にしか見えなかった。消費社会の後にやってくるポス消費社会にこそ焦点を当てるべきだ、と考えた。それは質的転換であり、時間を要する。
まず次代の本質を見抜き、次代を創出し、率先して移行すべきだ。その必要性は企業であれ国であれ同じことだ。それが次代で繁栄する必須条件だと思われた。
だが、ものになるまでに1年半を要した。もちろんイの一番に世話になった社長に献本した。実は、その時にはすでに次の本の構想が固まっていた。
それは、1年半の間に、重兼さんという新聞記者に相談したおかげだ。彼は、1冊目は身を持ち崩した女にでも書ける。「問題は2冊目だ」と言った。だから、次の本の取材活動を並行して始めていたからだ。テーマは、ポスト消費社会で繁栄する会社の姿だ。
この2冊目は、『人と地球にやさしい企業』で、1990年に日の目を見た。顧客第一主義と地球環境至上主義に徹する企業の提唱であった。その中で、オランダが金融的に全盛を極めた時のバブル現象・チューリッピ事件も取り上げている。オランダはチューリップの球根でバブル現象を生じさせたが、土地では生じさせていない。国土問題では日本以上に恵まれない国であり、国民だがそれは「風の取引」と見ていたからだ。
翌年あたりから日本のバブル崩壊がささやかれ始める。
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