徳島出張の報告
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四国出張は、8月27日の午後3時から始まる「徳島剣山世界農業遺産支援協議会総会」に参加し、短いスピーチと、翌日の見学だった。だが、そうと知った人の計らいで、「早めに鳴門に着き、母親孝行もしては」と提案していただけた。 鳴門北ICで迎えてくださったのは、野田先生。過日先生の紹介で迎えた田村社長の運転だった。「徳島炭市場」という一風変った社名だったし、興味津々の商品に惹かれたこともあり、チョッと余計なことまで言ったことが幸いした。 「母も鳴門の出身」である、にもかかわらず、これまでに一度も「訪れたことがない」で、止めればよかった。だが話しが弾み、「山の話」まで出してしまった。母が小学生の時に「山に登って」「2階建ての飛行機を見た」。操縦者の「顔が見えた」と幾度も聞かされた話だ。その上に、私は近年、2度も坂東のドイツ館を訪れる機会があり、その山を探したが、見当たるはずもなかった、との話までしてしまった。 この話を耳にした野田先生は、鳴門では母の旧姓一族は限られている、と興味をもってもらえ、先生同道で半日付き合っていただけることになった。 山は妙見山だった。今は頂上に鉄筋コンクリートの岡崎城が再建されており、一帯を展望できた。吉野川の河口に位置し、その三角州が一望できる。古代の渡来人は、この三角州を見て定住を願い、それが国生み神話に結び付いたのだろう。かなり広大な平地だ。 実に恵まれた地勢であり、地味は肥えている。土産に「鳴門ミニ金時」をいただいたが、ナシの名産地であり、レンコンの名産地でもある。かつては、塩田が広がっていた、と聴いた。 目を少し南に転ずると「国生みの沼島」が遠望でき、北に転ずると鳴門小橋が手前に、小山のむこうに鳴門大橋も見える。 城郭の内部には、坂東の捕虜収容所で過ごしたドイツ人の写真もあった。私が唯一興味を持って母から聞いた話だ。だからこの中に「その人もいるのかもしれない」と思った。母が肩車をしてもらって「この曲を聴いた」と、語ったことがあった。私はまだ学生時代だった、と思う。部屋に第九が流れたときのことで。「この局、聴いたことがある」と母が言い出した。その時からズーッと気にかけるようになった。 墓地にも案内された。その導入部には忠魂の碑がびっしりと並んでいた。戦時中に勇猛な兵士を輩出した、と聴いていた。 一族の墓地は奥まった傾斜地にあった。本家の1人で長く市長を勤めた人の名も墓碑に見た。一族は塩田王であった。藍染め王であった三木一族から嫁をもらっている、と野田先生に教わった。こうしたことに興味がなかった私だが、初めて母の生地を訪ね、身近に感じた。来年の盆には両親の墓に参り、母に報告しようと思った。 三木一族の屋敷は現存していた。繊維関係の歴史的資料が収蔵された資料館もある。 昼食は田村社長の奥さんが経営するレストランでごちそうになった。夫人は未来志向の優れた料理研究家だ。見事に乾燥野菜を作り、活かしもする。 「徳島剣山世界農業遺産支援協議会総会」は賑わった。参加予定者がはるかに超過し、関係者は大変であったようだが、有意義であったと思う。与えられたわずか20分で、OHPでアイトワの紹介をし、持論を展開した。工業社会の破綻と次代創造の必要性を訴えたが、すんなりと受け入れられた。渦の外から眺めると、よく見えるのだろう。 傾斜地集落に入り込み、その農業の知恵や伝統に触れた人の報告もあった。私が考える次代は、「古人の知恵」と「近代科学の成果物」の融合によって、持続可能な生き方を編み出すことだが、その「古人の知恵」の宝庫と見た。 懇親会もにぎわった。ともかく、親切な人が多い地域、と思った。おそらく、生前の母に訊いたことだが、一家をあげて巡礼者のお接待に当たったという。その伝統が残っているのではないか。翌日への余韻を残して私は早めに引き上げた。網田さんと一緒に温泉に浸かったが、とても親切な彼はその後があった。「徳島炭市場」の田村社長とすぐ仲良くなり、意見交換の2次会に出かけた。 翌日は、林先生の車で3か所を案内してもらった。まず、日本3大暴れ側の1つ・吉野川下流にある日本最大の中州(中之島)元の名「粟島」の見学。東西6km×南北1,2km、400haからの中之島に、神代からつながる忌部族が、洪水を読み込んで(ナイル三角州のミニチュア版のごとく)歴史的に自然循環型の自給自足生活をしていた。古代は、四国全体を粟島と呼んでいた。 明治政府は、1911(M44)年に吉野川改修工事を始め、当時の6町村506戸、約3000人の忌部族を1925年に、北海道他に強制移住させている。そして島名も「善入寺島」と改め、無人島にして、その歴史を消した。 この島を横断したが、未だ肥沃な土地であり、農地として活かす人がいる。上流をには稲穂山が望める。その先端部、ヒシリコ「日知利(理)子」から吉野川流域が一望できる。私は、ここから忌部族を消さなければならなかった背景を憶測した。 この人たちが粟島を離れる時に作ったという粟島神社に参拝した。 |
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鉄筋コンクリートの岡崎城 |
かなり広大な平地だ |
土産に「鳴門ミニ金時」をいただいた |
鳴門小橋 |
鳴門大橋 |
その人もいるのかもしれない」と思った |
忠魂の碑がびっしりと並んでいた |
一族の墓地は奥まった傾斜地にあった |
三木一族の屋敷は現存していた |
「古人の知恵」の宝庫と見た |
「古人の知恵」 |
農地として活かす人がいる |
稲穂山が望める |
粟島神社に参拝した |
粟島神社 |
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この一帯は「火打石の産地」であり、古くはサヌガイトに代わる結晶片岩を刃物にしていた。鉄と銅の産地でもあった。京に都が出来た頃は、食料を、吉野川を下って海に出て、淀川を上って届けていたようだ。 空海が歩んだという道を走り、粟島を一望できる山腹にも案内された。はるか彼方に沼島が見えた。次いでアラタエで知られる忌部神社を訪れた。すぐそばの小高いところにアラタエ御殿があったという。大嘗祭の度に建てられ、アラタエがつくられ、解体される。天皇が即位し、最初に育てた穀物を天照大神他に供え、自らも食す一代一度の新嘗祭で用いる衣服だ。最近では28年ほど前に、今上天皇が召された。 岩戸、山川地域総合センター、阿波和紙伝統産業、あるいは天村雲神社なども訪ねた。わが国の五穀、麻、あるいは和紙などは、ここを日本のルーツとし、全国に伝わっている。 3つ目の訪問先は、剣山山腹に広がる集落の1つで、まずみきとち堂にたどり着き、そこでしばし歓談した。素晴らしい展望。 四国88カ所とは別に、端山四国霊場があり、その23番札所だが、今は四方に建具が入り、剣木長186集落の1つの集会場となっている。日本最大のお堂群と聞いた。いつの日に過去の中で村人と車座の1人になりたく願った。 その後、傾斜地農業にいそしむ村と村人を訪ねた。ハゼ掛けの棚をヘチマやキュウリの支柱に活かす。種は自家栽培種を活かす。傾斜地に沿った土質を尊び、その保持に適した農具を開発する。蛋白源を確保。海が近く、塩に恵まれているはずだが、乾燥保存の技術が多々見られた。豊かな芸術性。さまざまな知恵が楽しかった。原種のトウモロコシの種をもらった。ニホンミツバチが沢山入り、元気なので羨ましかった。 |
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はるか彼方に沼島が見えた |
忌部神社を訪れた |
アラタエ御殿があったという |
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岩戸 |
山川地域総合センター |
阿波和紙伝統産業 |
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天村雲神社 |
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そこでしばし歓談した |
素晴らしい展望 |
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傾斜地農業にいそしむ村と村人を訪ねた |
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ハゼ掛けの棚をヘチマやキュウリの支柱に活かす |
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種は自家栽培種を活かす |
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土質を尊び |
保持に適した農具を開発する |
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蛋白源を確保 |
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乾燥保存の技術が多々見られた |
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豊かな芸術性 |
原種のトウモロコシの種をもらった |
ニホンミツバチが沢山入り |
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