早起きの効能

 

 この日、早起きをした妻は、人形工房に1時間ほどこもり、「良い時間でした」とつぶやきながら戻って来た。朝食づくりも、はかどったようだ。

 妻は少し朝に弱く、私(5時間の睡眠時間で充分)と違って7時間は眠りたい人だ。だが同じ7時間であれ、「遅寝遅起き」よりも「早寝早起き」の方が心身を快適にする、と遅まきながら気付いたのかもしれない。ならば、これまで遅寝に付き合わせてきた私としては、睡眠に関して2度目の反省をしなければならない。

 最初の反省は、四半世紀も昔のことだ。長年の妻に対する誤解と、とりわけ新婚当初(商社時代)の7年間のあり様についての反省である。始発電車で出勤し、夕食は必ず自宅でとったが、食べ終えると12時前、という日々が続いた。少し早く帰宅でき日は、寝酒に着き合せ、深夜まで話し込んだりした。

 朝食は。朝取りの野菜と手前味噌を用いた味噌汁を好み、タップリ食した。凍てるような朝も、自転車を2人乗りして渡月橋を渡り、嬉々と私は大阪の本町まで出勤した。

 妻は坂道をこいで帰った。その後も、やすむ間がなかった。1つ屋敷の目と鼻の先で両親が暮らしていたが、妻は両親の世話にも余念がなく、お使いなどに即応しようとしていたからだ。当時は、そのようなことに我関せずの私だったから、ひたすら自分勝手な早起きの効能を楽しんでいた。

 それが妻に多大な無理を強いていたことを後年知った。何せ、妻を「持病持ちの人」と誤解していたのだから。いつも日曜日になると決まったように吐き気をもよおし、トイレに駆け込んでいた。そして2〜3時間ほど寝込むことさえあった。後年、それは1週間で蓄積した睡眠不足の反動が原因であった、と私は知るに至り、痛く反省している。

 その前に、私には1つの気づきがあった。仕事は順調であったが、脳裏に疑問が渦巻くようになったわけだ。消費者が好むモノやコトを立案し、世の中に普及させ、利益を上げていた。社会に貢献し、会社を繁栄させ、家族も豊かにしている。そうした価値や喜びはことごとく錯覚に基づいているのではないか、と自問自答するようになったわけだ。

 裏返していえば、一生懸命になって資源を枯渇させ、水や空気などを汚染し、ゴミを増やしている。大げさに言えば、「皆で乗っている船(宇宙船地球号)を沈ませかねないことをしながら」有頂天になっている。その過程で妻を睡眠不足に陥れていた。間違いなく錯覚自活のススメ 59 消費者ゴッコで終わりたくない  ・  67 消費社会を見直すに酔いしれていたわけだ、と気付くに至った。

 もっと大事なことがある、と考えた。同じ睡眠不足になって努力するのなら、資源を枯渇させず、水や空気などを汚さず、ゴミを増やさずに済ませたい。もちろん、当時は「きれいごとで飯が食えるか」とか「環境で飯が食えるか」との声に苛まれた。ならば、自分たち夫婦で出来ることを仕上げてみよう、と思うにいたった。

 こうしたことが契機になって、睡眠不足に追いやっていた妻に対して申し訳なく思われるようになり、反省の念を抱き始めている。かくして、早起きの効能に関して2度目の気付きに至る。会社を辞め、好きなような時間配分ができる日を迎えたからだ。それは遅寝遅起きの始まりだった。好きなだけ眠る日々だったが、やがて妻も、7時間ほど眠れば元気に起き出す日々を迎えるようになった。

 早晩気づかされたことがある。遅寝遅起きの7時間を、早寝早起きの7時間への転換である。おかげで、夜明けがとても美しく見えるようになった。晴々とした気分で夜明け迎えられるようになった。そこで思い出したことがある。それは、若き日の思い出だ。

 最初の気づきは19歳の時だった。受験浪人になった私は、夏以降は自宅にこもり、昼夜を逆にして勉強した。日の出を眺めてから夕刻近くまで寝たわけだ。毎日、「刻々と移ろうこの夜明けの美しさ」を眺めたが、この美しさを知らずに眠っている人が気の毒に思われた。その記憶が、サラリーマンになっても、電気の明かりの下で費やす余暇行動、たとえば顔見知りのバーでちょいと一杯などに浮かれる気分にさせなかったのだと思う。

 あえて言えば、桁違いにスバラシイ「気晴らし」の発見である。その1つが「生涯仕事」だった。生涯に一度だけ「ないなりの全知全能を絞り」成し遂げ、「これが私なんだ」と得心しながら生きる「生き方」の発見である。既製品を買いあさるのではなく、自分なりに創造能力を傾注し、その産物に得心する「生き方」である。

 この生き方に「真の喜び」を見いだせたように感じた時に、私は私に、私なりの肩書を、与えている。それが「ライフスタイルコンサルタント」だった。実はその時に、もう一種類の名刺を、未使用に終わったが、作っている。こうした「生き方」を目指そう、と呼びかけたくて「ライフスタイルオリエンテイター」だった。

 ここで、思い出したことがある。それは、生涯で最後になるであろうと覚悟して取り組んだ力仕事である。毎年のごとく非力になるわが身を鑑み「今ならまだできる」と見て取り組んだ仕事がある。それは石を大量に用いる「生涯仕事」であった。

 いわゆる定年を自ら65歳と決め、自由時間を得て、取り組んだ。それまでは丸太で作っており、数年毎に作り直していた庭の階段などを、すべて石に取り替える作業であった。日々力仕事で疲れ、早寝をし、朝の目覚めが恋しい日々が続いた。

 最近のことだが、心臓の欠陥に気付かされる事態となり、これがまたヨカッタ。アタマではなく、カラダで、未来を感じとれるようになった。あえていえば、人生観が死生観に代わったと言ってよさそうだ。夜明けの見え方も感じ方もまた変わった。