秋の忌部集落のありよう |
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コエグロの準備が進む光景を楽しみながら、陽が落ちる前に「やそしき」にたどりつけた。薪風呂から立ち込める煙の香りがスガスガしい。 皆さんはなかなか屋内には入らず、遠望を楽しんでいた。深い谷をはさむかたちで、幾つかの山が望めるが、大きな3つの山肌にはそれぞれ1つの集落が認められた。その一番奥の山の集落は、忌部ではなく、平家の落人が形成したとか。 「やそしき」に目を移すと、「こんなユーティリティーが欲しいネ」と妻と語った便利そうな小屋があり、その一角で、辛トウガラシが干されていた。 炊事場の側に、煙突が釜の中央に立つピザ釜があるが、妻に「これだ」といって見せた。山水も飲ませた。 自給自足率が今も極めて高い土地柄故に、夕食は楽しくて美味だった。ジャガイモと固い豆腐の田楽が、卓上の囲炉裏(に薪ストーブから取り出した燠が移され、その柔らかい火)で焼かれ、味噌があぶられた香りを漂わせ始めると、皆が集った。 このジャガイモは、幾十世代、何百年と引き継がれている間に、かくのごとき土地柄にあった品種になった、と聞いた。何ともポクポクして甘く、美味。コイモはとても軟らかくてモチモチしている。ズイキ(コイモの葉柄)は、昨年の収穫分だろう。 シカ肉のタタキに舌鼓を打った。さばいて間なしの肉、と聞いた。いっそのこと刃物を入れぬ前の生肉(人間は生では食べないように進められているが)に、ニホンオオカミがそうしていたようにかぶり付いてみたいものだ、と思った。 食事は本来、敬虔なるものであったはず。とりわけ肉食は、獲物と対峙し、格闘、あるいは知恵比べをし、勝利して同化する行為であったのだから。にもかかわらず、ハイエナかハゲタカのごとくに死肉を、しかも見知らぬ他人が関わった死肉を買い求め、命をもらっているとの意識もなく、軟らかいノ、美味しいノ、と私達は食い漁っている。 ズイキ、コイモ、高野豆腐などの煮付けをはじめ、ソバを活かした汁物など、いずれもが舌によく合った。 酒は、村上夫妻と林先生の持ち込みだった。村上夫妻は私の好みに沿って、徳島名産のイモ(生芋と焼き芋の鳴門金時)で作って2種の焼酎を選んでもらった。 久しぶりの五右衛門風呂もご馳走だった。恐る恐る背中を鉄釜に沿わせた。次いで足を鉄釜につけて、すぐに引っ込めた。下部ほど鉄釜は熱い、げす板に細い隙間があったのだろう。ジックリ温まっていると、髪の毛よりも、もっと細くて熱い針金を、尻に敷いているかのような感じがした。 風呂上がりに、しばし夜風に当たった。その折に、このたびの旅でえた大収穫の1つにあり着けた。それは過疎の実体の実感だった。 |
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皆さんはなかなか屋内には入らず、遠望を楽しんでいた |
便利そうな小屋があり |
辛トウガラシが干されていた |
煙突が釜の中央に立つピザ釜 |
夕食は楽しくて美味だった |
ジャガイモと固い豆腐の田楽 |
このジャガイモは |
シカ肉のタタキ |
ズイキ、コイモ、高野豆腐などの煮付け |
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ソバを活かした汁物 |
2種の焼酎 |
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向かいの深い谷を挟んだ3つの急な山肌に、それぞれ1ツずつ集落を陽がある間に眺めてきたが、夜に眺めたのは初めてだ。ポツリ、またポツリと、広い闇夜の空間に計6つの星のごとき灯が望めた。それだけだ。1つの集落に2つ、もう1つの山肌の方に4つ。それが住人の住まう民家の数、と聞かされた。往年なら、20〜30戸はあったに違いない。 さらに遠方に、平家の落人村だと昼間に聞いた集落があったが、囲炉裏の側に戻ってから、眺めずじまいだったことに気づいた。それを確かめには出ずに、妄想を巡らせた。キット平家の人たちは、追われるままに四国にたどり着いたのではなく、四国を目指して落ち延びたのではないか。冷え込みが始まった部屋での妄想だった。 林先生は、映像を活かした忌部の人たちの歴史と生活を紹介した。とても良かった。私は県の地図を取り出して、3大暴れ川である吉野川と剣山の土質が生み出した豊かな地形(まるで小ナイルのごとき三角州もある)と、そこで展開されてきた文化を少し語った。 久しぶりの、しかも男女各4人と大勢の、雑魚寝を楽しんだ。イビキになやまされることはなく、逆に迷惑をかけたかもしれない。 よき2日目の夜明けに恵まれた。妻を誘い、朝食前の散歩に出た。空気がウマイ。美しい朝焼けに迎えられ、わが家の朝を思い出した。山水もウマイ。わが家の水も同じようにウマイが、残念ながらそれは山水ではなく、人工的な水で、高くつかいている。 「なんでも生かすのね」と妻が注目したのは傘だった。緊急を要したのだろうか。傘に替えて竹などに取り替え忘れているのではないか。妻が次に、惹きつけられたのは石組だった。そこに窪みがあった。湧水場?と見て、そばに寄ったが、その痕跡はない。 朝食後のひと時に、妻は持参した人形を「やそしき」の女性たちに披露した。三木文庫で学芸員に迎えられておれば、取り出して見せていたはずだ、と思った。母の形見の生地が生かしており、2つの願いを込めて持参したのだろう。生まれ故郷の空気を吸わせ田上に、この生地の謎を解きたかったに違いない。藍染め地の上に友禅柄を載せた生地だが、少なくとも100年以上もの年月を経ていながらビクともしていない。もしや徳島の生地ではとの思いと、ビクともしていないわけを知りたくて荷物に含めさせていたのだろう。 |
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2日目の夜明けに恵まれた |
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美しい朝焼けに迎えられ |
妻が注目したのは傘だった |
惹きつけられたのは石組だった |
窪みがあった |
妻は持参した人形を「やそしき」の女性たちに披露した |
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車を駆って山道を登り、「集落の今」の見学が始まった。この旅の狙いは、巧みな石組の見学の他に、この時期にしか見られない干し物文化の見学であった。 民家の影に、1人引きの人力鋤きがあった。初見だが、榮さん(1年余前から入村した元俳優の青年)にその用い方を解説してもらえた。 「傾斜地栽培の今」も見て回った。聞きしに勝る急こう配に、高所恐怖種の妻は驚かず、生まれ育った疎開地の思い出を語った。きっと、その母の苦労を振り返っていたことだろう。 いよいよ秀逸の石組みと聞いていた現場に立つことになった。山水を引く谷あいの側にそれはあった。その道中で、「来年はこの方式を」と妻に教えられた「ハヤトウリ」の良き育て方を見た。ちなみに、わが家の今年は、勝手に側の枝垂れ桜の木に登り始め、かくのごとし。 |
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干し物文化の見学であった |
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1人引きの人力鋤きがあった |
「傾斜地栽培の今」も見て回った |
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秀逸の石組みと聞いていた現場に立つことになった |
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「ハヤトウリ」の良き育て方を見た |
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勝手に側の枝垂れ桜の木に登り始め、かくのごとし |
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このたび最後に訪ねた先は、「カジ」の木の葉を紋章にいただく「もう1つの忌部神社」だった。鳥居に「モロ」の木を用いていた。「カジ」と「モロ」はともに、このたびの旅で初めて知った樹種だ。「カジ」は、コウゾと似た木のようで、樹皮を繊維に活かし、衣服を造った。「モロ」の木は、クリより腐りにくいよううだ。 このたび初めて知ったことがもう一点あったことになる。過日、別の忌部神社を訪れているが、「麻」を繊維として活かしていた。つまり、忌部は「麻の忌部」と「カジの忌部」の2つがあるようだ、ということだ。私の目には「カジの忌部」の方が歴史が古そう、との印象を受けたが、興味津々。次回の旅で掘り下げる愉しみが出来た。 幾つかの堂(村人の集会場でもある)も見た。その一か所に、立石(文化)列石の一部があった。もう一つ堂では、端山四国霊場が話題になった。一帯に400〜500近い堂があるようだが、その中から三好イヤなる人が「四国霊場八十八カ所」に倣い「つるぎ町端四国八十八カ所」として88を選んだことも知った。 この他に、巨木を尊ぶ土地柄の証も見た。見知らぬキノコにも目をひかれた。さらに心惹かれたのは無縁墓を伴った一家の墓地であり、鳥獣の供養墓であった。食は本来、敬虔なるものであったはず、との想いの追認だった。 |
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「カジ」の木の葉を紋章にいただく「もう1つの忌部神社」だった |
鳥居に「モロ」の木を用いていた |
幾つかの堂(村人の集会場でもある)も見た |
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巨木を尊ぶ土地柄の証も見た |
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見知らぬキノコ |
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無縁墓を伴った一家の墓地 |
鳥獣の供養墓 |