人間の定義義

 

 19世紀を先導したイギリスのEU離脱。その後の、フィリピンが明らかにし始めた選択。そして、このたびの、20世紀を引っ張ったアメリカの大統領選。これらの現象をどのように受け止めればよいのか。それぞれ背景も、駆け引きの狙いも、次元も異なるようだが、一からげにしている一本の縄が見えてくる。

 それはパラダイムシフトだ。工業社会の破綻、崩壊、あるいは終焉の査証だ。あるいは、これまでの社会が許容した民主主義や資本主義の破綻、崩壊、あるいは終焉の査証だ。つまり、システムの転換が求められているわけだ。

 悲しいことだが人間は、トッサ(咄嗟)の時に間違いを犯しやすい。野生動物は、本能で判断できるし、すればよい。しかし、人間はそうはゆかない。本能だけで生きているわけではないからだ。それだけに要注意、と心がける必要があるようだ。

 ある賢人は、咄嗟の時に、本能と倫理のいずれで判断を下すか、この選択の差が人の命運を大きく左右する、と語っていた。ナルホド、とその時は思った。その後、様々な場面に立ち会い、色々と失敗を重ねた結果、もう少し細かく分けてかかる必要がある、と思うようになっている。本能と倫理の間に、もっと厄介な要素がありそうだ。

 そこで、アイトワ塾では一つの提案をした。だが、その私には近道と思われる提案よりも先に、近道を近道にせざるを得なくしてきた足掻きの方を先に取り上げ、掘り下げることになった。この決定は、アメリカの大統領選の結果が出始める前日だった。

 それにしても悔やまれる。FBIの判断と選択の時期がいかにもまずかった。サンダース候補が残っていた段階で下すべきそれらを、なぜ遅らせたのか。カードの切り方を間違った。間違わずに済ませていたら、ここまでアメリカは権威を落さずに済んでいたに違いない。トランプの実体がいずれであれ、アメリカが築いた安心感は取り戻せまい。

 もちろんアメリカが間違いを犯していた間に、わが国も大きな間違いを犯している。核兵器禁止条約では旗手になるべきであったのに、落ち目のアメリカの三下になった。TPPにこだわって、パリ協定に遅れをとった。はては、土人発言を「差別と断言できない」と擁護する大臣(国の代表の1人に何重もの過ちを犯させた)を出現させた。それを言うなら、せめて「先住民」という言葉を使うべきだ。これらはいずれも悔やんでも悔やみきれない禍根を残したことになる。パラダイムシフトどころの騒ぎではない。

 それはともかく、我が身の振り方ぐらいは間違いたくないものだ。なぜなら、私たちはトランプに投票した白人と同じ病に苛まれかけているからだ。

 アメリカではその兆候が、すでに1960年代に現れていた。絶頂期のアメリカのありように日本は憧れ、躍起になって働いていた頃だ。日本ではやがて「三種の神器」「一億総白痴化」あるいは「一億総中流」などの言葉を流行らせるようになる。

 1967年であったと思う、NY大学のヤンケロビッチ教授が面白い論文を発表した。その時既に「トランプ旋風」の芽がもたげ始めていたことになる、と見てよいだろう。

 デトロイトなどの工業都市が光輝いていたころの話だ。「素敵な夫」と妻から褒められ、子どもからは「素敵なパパ」と憧れてもらえ、近隣の人たちが「紳士」と見る一群の白人成人層があった。その人たちは時の体制に順応し、やや保守的であった。

 ヤンケロビッチ教授は、既に変革の波が認められ始めていたが、この人たちはその波に半歩ずつ乗り遅れている、と危惧したのだろ。この人たちが支持している、タバコ(ラッキーストライク)、雑誌(ライフ)、あるいは車(クライスラー)の行く末を心配した。つまり、この紳士たちが支持する3つのブランド製品の未来は暗い、と言わんばかりの論文だった。当時のアメリカでは、こうした白人たちが中間層を形成し、豊かな消費生活を謳歌していた。

 私たち日本人はTV番組などを通してこうした人たちが繰り広げる物的に豊かな生活、週末の山の様な買い物、テーマパークへのお出かけ、あるいはホームパーティに憧れ、非日常と見てとった。間違いなくそうした生活を支える白人男性が「素敵な夫」だし「素敵なパパ」として私の目にも映った。

 やがて、この3つのブランドは地位を落したり消えたりするようになる。同時に、この3つのブランドを支えた中間層の立場がとても怪しげになり始める。

 その後、1995年に2度のアメリカ取材を経て拙著『「想い」を売る会社』が誕生したが、その中で中間層が消滅の危機にさらされている、と記した。あるコンファレンスで隣座にい合わせた人(その後の大統領選挙に出馬した)にこの兆候を教えられた、と拙著に記した。彼は中間層の行く末を憂い、アメリカの危機を訴え、「皆さんの努力に期待している」とスピーチを締めくくった。その危機がこのたび露わになった。

 この白人層が、つまり崩壊した中間層の中核が、今日のトランプ現象を生じさせた人たちであったかのように、私には思われてならない。そのように見ていた私は、過日のアイトワ塾のBBQでは、3人の白人来客(1人は日本に帰化した元アメリカ人、1人はアメリカ人、そして残る1人はカナダ人)にこの点を質している。3人は共に、まんざらでもない反応だった。

 選ぶべき「方向」を間違い、まっとうな「日常」の構築を疎かにし、「人間の定義」に甘くなっていたのではないか。それが、「素敵な夫」と妻から褒められ、子どもからは「素敵なパパ」と憧れてもらえ、近隣の人たちが「紳士」と見させていたのではないか。つまり、この人たちが悪かったのではない。油断させたシステムに問題がある。その油断が貧富格差を拡大させ、自然汚染に始まり、気象変動まで生じさせている。

 同様のことが、今の日本でも生じつつある。わが国はこの間に、「終身雇用の国」から「リストラが最も安易な経済大国」に代わっている。大手組み立て産業さえもがリストラ旋風を吹き荒らさせてきたにもかかわらず、国際競争力を落している。

 その波と歩調を合わせるかのおごとく、街ではヘイトスピーチやそのたぐいの現象が目に余るようになっていた。

 日本は、アメリカがクシャミをすれば風邪を引く、と言われてきた。心配だ。

 それだけに、我が身の振り方ぐらいは間違いたくないものだ。そのためにも、「人間の定義」が問い直されそうだと「覚悟」し、それを前提として進むべき「方向」を見定め直すことが肝要ではないか。そしてその「覚悟」と「方向」に沿った「日常」の確立が急がれる、「非日常」に惑わされないことが第一、と私は見ている。