日本ではなく
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大昔のイギリスは、貧しさと他民族の横暴に耐えながら、やがて輝かしい新時代や新社会(工業時代や資本主義社会)を創出し、近代を切り拓いた。 にもかかわらず、その絶頂期にあって、イギリスは「元のイギリスにもどった時の心備え」を促す人も排出し、元のつつましい生き方をすればいだけ、との覚悟もしている。もちろん、世界初の万博(と呼ばれるようになった)に諸悪の根源を察知し、入口で踵を返した青年も輩出、後年近代工芸運動を起こさせている。そうした風土や意識が、幾代にもわたって使い続けられる居住空間など社会資本を充実させ、逆にグルメに酔ったりすることがない国民にしたのだろう、と私は見ている。 日本とイギリス。同じ島国なのに、なぜこうも違うのか。日本は今も、次代を生み出す上でいえば 、世界で最も恵まれた諸条件を備えており、近道にあるが、日本は次代を切り拓けそうにない。イギリスがまた切り拓くことになりそうだ、と思われてならない。わが時代を切り拓くどころか、逆に、現政権はまたぞろババを引こうとしている。(過去の当週記、。040911 ババを引きたくない) かつて欧米が、ぼつぼつ植民地政策から手を引こうとしていた時に、わが国は最後の植民地政策大国を目指し、ババを引いた。欧米に袋たたきにされ、それが欧米に免罪符を与えた。片や日本は、未だに南京事件や慰安婦問題のケリさえつけられず、負の遺産を未来世代に引継ぎかねない。そのせいか、私の目にはトランプがヒトラーに見え始めた。 武力戦争時ではヒトラーを当てにして辛酸を舐めた。現在進行中の第三次世界大戦(経済)戦争ではトランプにすがり、辛酸を舐めることになりそうだ。武力戦争当時と同様に、つまり泥沼に足を突っ込んでしまった当時と同様に、わが国はすでに迷走している。 内外のあらかたの専門家がアベノミクスの失敗や間違いを指摘しているにも関わらず、現政権はチェンジマインドが出来ず、泥沼から足を引こうとしておらず、武力戦争時と同じ轍を踏みつつある。 だからこのたび、余計に慌てて(選挙中はヒラリーに秋波を送っていたものだから、慌てふためき)トランプ詣でをしたのだろう。それはさておき、 イギリスのメイ首相は、EU離脱反対派であったが、首相に選ばれたときに、キッパリと「後戻りはしない」と断言した。チェンジマインドして、EU離脱手続きを粛々と進め、EU圏外国となり、そのイギリスを見事に導きたい、と宣言したのだろう。イギリスは国民がEU離脱を投票で決めた。メイは、その国の首相に選ばれた以上は、EU離脱を見事に果たし、皆さんの期待にそったイギリスへと導きたい、と決意表明したのだろう。そのメイに、国民も反対派の議員もこぞって従おうとしているようだ。 日本とイギリス。同じ島国なのに、なぜこうも違うのか。 それはどうしてか、と考えた。きっとEU離脱について、賛否の議論が充分に戦わされていたからではないか。だからメイにも、離脱派の言い分が十分に理解できていたに違いない。「それも一理ある」「その理を私が受け入れることになれば、いかに導くか」とも考えたことであろう。だからその過程で「こうした問題点はないか」と詰問もし、「なるほど」と納得もしていたのではないか。もちろんこれは下司の勘繰りに過ぎない。だが私には、そう勘繰りたくなる可愛い学生時代の体験がある。「26対0」と「25対1」事件だ。 「26対0」は3年生の時の議論の結果だ。その議論は、いつものように始まった。なにせ3年近く来る日も来る日も一緒に過ごした25人の学生仲間と戦わせた議論だ。工芸学部意匠(デザイン)工芸学科所属は26人で、仲間はいつも和気あいあいと議論を始めた。 「旅行の行き先」を決める討論だった。私の提案は通らなかった。私が熱心になるにしたがって険悪な空気になり、やがて案は2つに絞られ、挙手で決めることになった。その結果が「26対0」だった。この結果を見て、他の25人が「25対1」でなかったことに驚いた。私は、残る25人の驚きようを見てビックリした。残念ながら、他の25人はこのビックリの原因の究明に関心がなかった。私としては、なぜ私が「自分の主張に1票を入れなかったのか、その理由」を問い質してほしかった。 逆に25人は、「なんで自分が手を揚げないような案にこだわったのか」とか「そのために、随分時間を無駄にさせられた」といった非難を浴びせた。私もアホラシクなったが、私はおかげで負担から逃れることができて、幸いだった。 私は、是非とも「残る25人の仲間を案内し、皆に見せたい、体験させたい」と願うところを推挙した。その説得に躍起となった。だが残る25人の中に、数名の提案者がいたが、どうやら彼らは「自分が行きたいところ」を挙げていたようだ。 この考え方の方が、他の人には理解がしやすかったのだろう。だから25人は、私が熱心になるにしたがって嫌気がさし、その嫌気が幾つかあった他の案を1本に絞らせ、決を採ることになったのだろう。それはともかく、もとより私は、私の挙げた既知の行き先より、未知の行き先に行きたかった。 卒業間近の議論は「25対1」で終わった。それは、卒業後の同窓会のありようを決める討議だった。私の1票をよそに、1カ月に1度集う案が、熱病かのごとくに採用された。関西圏での就職組は「第3金曜日の午後7時に、新阪急ホテルのロビーで集合」になった。 この時も「また森君だけが1人で反対だ」と非難されたものだ。私の意見は、年に1度といならば折れてもよい。「月に1度はありえない」むしろ「3年目に1度、1泊2日で集おうではないか」程度でよいのではないか、だった。だが決の1票は私のみだった。 私は決まった以上、その年の真夏まで続けて参加した。その間に1人欠け、3人欠けと欠席が増え、最後の集いでは関西の幹事・村上多佳子と私の2人だけになった。そこで2人で、このルールを廃案にした。その後、年賀状ていどの付き合いになった 3年後の夏、私は嵐山の「三友楼で」と、今はなき旅館で1泊2日の招集をかけた。大勢が集い、楽しく終えた。その時の印象は3つ。「森君は、近くに自宅があるのに、なぜ泊まるんだ」との質問があったこと。2つ目は、私は心の中で「2度とクラス会の幹事はしない」と決めたこと。そして、この集いの間に、学生時代の「25対1」と「26対0」を思い出したようで、口にした人が1人いたこと。4人いた女子学生の1人、佐々木恵子だった。いつか何かで知恵を出し合いたい、と思ったものだ。 それは四半世紀後に実った。商社から、就職先がアパレル企業に替わっていた。私も社長室長としてそれ相当の努力をしたが、その努力と同じ考え方で私生活の充実にも努めていた。この2つの間に溝が出来始め、それがこの機会を用意した。 その時の葛藤を、何故かこのたび思い出した。勤めていたアパレル企業で私の意見が通らなくなり、残って努力する意欲が萎え、離脱した。残って努力する意欲とは、それまでの8年間の努力の総仕上げだった。だが、会社は、その逆の方向に突っ走り始めた。要はバブルに酔い始めていたわけだ。その一環で、安藤忠雄を登用し、全自動・窓はハメ殺しなどの建築物をつくらせ始めた。私には工業社会が許した狂気のレガシーに見えた。 私はライフワークに軸足を移すことにした。意見が通りにくくなり始めた時に、手を付けはじめていた私生活上の計画を実行に移すことにした。その現実化に、佐々木恵子の手手と知恵をかりた。計画に5年をかけ、建設に1年をかけて、妻の人形工房をつくった。会社を離脱した時に、まだ型枠が残っていたが、翌年の3月末には完工した。 クダラヌ思い出に長々とふけったが、それは「1969年の冬」を振り返り、このところイギリス人のありようにとても惹きつけられている、と言いたかったからだ。それは冬のロンドンでのことだった。ベンジャミンの時計塔などがまだ(石炭の煤で)真っ黒に汚れたままの頃だった。私は当時、ちまたでささやかれていた「イギリス病」を目の当たりにしており、イギリス人をバカにした。食料自給率は40%と聞かされたりしたからだ。 その後、イギリスは植民地を次々と失った。だが近年、食料自給率が7割となり、今では覚悟すれば、自給も可能、と知るに至り、バカにしていた自分を恥じた。わが国は、当時のイギリスより深刻な状態になっているが、現政権はTPPを進め、食料問題でも国民の消費の拡大を促そうとしている。 おりしも先週、「公共哲学」という言葉も知った。そしてこの度、「所領知」に興味津々になっている。きっとイギリスも、ドイツやフランスと同様に、いわゆる「公共哲学」を大切にしてきた国であろう。わが政権は逆に、消費を促し、一億玉砕かのごとき無謀な働き方を国民に強いている。大丈夫かいな。私は心配だ。 「言霊」の国・日本の方が、ガムシャラが通り、うまくことが運びやすい一面がある、と思う。だが、とりわけ守りに入ると、めっぽう弱くなうように思われてならない。間違いなく、新たの時代の創出が求められる時は、歯が立たないように思われて心配だ。 私の「25対1」や「26対0」を許してきたココロが心配だ。 |
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