当時の心境を振り返り

 

 父から「結核菌もらった」と思い込んだ小学6年生は、なぜか愛宕山をこう描いた。結核は不治の病と思われていたし、当時の日本では、一位にランクされた死亡原因だった。

 その後、大学に進学するまで、定期検診の度に、保健所まで後日出向かされた。「通し」と呼ぶX線を直接(上体を動かしながら)照射される検査だ。結核菌が浸潤した肺の病巣を時間をかけて調べてもらうわけだが、少なくとも年に1度は受けた。

 問題は、当時の検査官だ。いやほどX線を浴びていた計算になる。「右肩を上げて。そうそう、もっと高く」などと語り掛けながら、X線照射機の真正面に陣取っていた。その間には、私のカラダと、摩りガラスの様なスクリーンがあるだけ。私のカラダを透過したX線が摩りガラスに映し出す映像をのぞき込みながら、実に丁寧に診てもらえた。

 妻が、取り出した図画を額から外し、裏を確かめた。「4.5」の印が押してあった。これは図画の担任が、かなり真剣に採点に立ち向かった証拠、と思う。私にも経験があるから分かる。生徒数だけの作品を部屋に広げ、「ああでもない、こうでもない」と考えながら作品を幾度も並べ直し、5つのグループに分けたのだろう。多分私の作は、その内の「4」のグループだったに違いない。

 当時の教員は、まだ混乱が収まらぬ心境であったはずだ。教育基本法が改正され、国家が主体の教育から、主体を個人に移す教育へと方針が180度変更されたばかりの頃だったようにおもう。きっと教員は、とりわけ採点者個人の主観に左右されがちな科目の教員は、真面目な人であればあるほど悩まされていたことだろう。

 おそらく、「5」と「1」は各10%、「4」と「2」は各20%などとの配分を指導され、その上で「0.5」のプラスマイナスの裁量を与えられていた、と言った所ではないか。

 ある日、渡月橋の北の欄干から数10m東に下ったところで、私にはとても惨めな思いをしたことがある。「テッキョウ(鉄脚?)遠足」と呼ぶ体躯のゴールがそこで、私はショボショボと1人遅れてゴールした。道程の半ばあたりから雨が降り出し、子どもなりに真剣に肺浸潤のことを考えた上で、歩き始めた。

 ゴールには誰も待ってはいなかった。カラダをぬぐうタオルさえ持ち合わせておらず、寒くて歯がカタカタとして咬みあわず、途方に暮れた。その後のことは定かでない。学校に帰った記憶がない。帰っておれば、先生の驚いた顔か、冷たくあしらわれた顔。あるいは、慌てた顔か、心配してもらえていたようだと気付かせる顔など、記憶があってよさそうだが、ない。おそらくそのまま帰宅したのだろう。とはいえ、直接帰宅した、という確かな記憶も、ない。母はまだ、陽のある間は畑か野小屋で作業をしていた頃だ。

 それはともかく、それが当時の教育環境であった(ように思う)。学校では「点呼もせず」「みんな揃ってルか。よし、それでは解散」と言った調子で済ませたに違いない。今なら父兄に押し掛けられて、学校は文句の矢面に立たされることだろう。当時は違った。父兄がそのようなことをすれば、逆に父兄は先生に「躾が悪い」と叱られてしまい、「言われてみればその通り」と気づいた父兄に、子どもは余分の拳骨をもらった。

 それはそれで良かったように、私は思う。親よりも偉い人がいる、と気づかされたし、落伍者などはそれなりの覚悟が迫られる、と自覚できた。「親が親なら、子も子じゃ」とか「トンビがタカを生みよった」などとの自覚や覚悟、あるいは責任などを迫られ、自信や卑下を背負わされながら、たくましく生きていた。当時の私は卑下のどん底にあったが、日々生きの残っている、と言うだけで嬉しかった。

 今日の世の中は残酷になった、と思う。弱い人に、弱いとの自覚や覚悟、あるいは責任を迫らない教育をしているように思うからだ。それが本当の優しさだろうか、と思う。社会でいきなり、奈落の底に突き落とされたような心境にしているのではないか。打たれ強さなど肝心の抵抗力を授けず、まるで無菌状態で世に放り出すようなことをしているように思われてならない。

 政権は今、「カジノ」を強行採決で認可しようとしている。おそらく、深刻な落伍者、悲惨な家庭、あるいは卑劣な犯罪など、様々な弊害を増やすことだろう。だがそれもGDPを伸ばす作用に働くとの計算づくで、押し通そうとしている。

 この兆候は2年前から現れていた。シンガポールでカジノを見学した現首相は、これは景気高揚の「目玉に出来る」と語っている。にもかかわらず、カジノ容認の一族を国民は選挙で大勝させた。これも油断させられ過ぎではないか。

 中国の影響力も心配だ。今年は「喫土」という言葉を流行らせ、流行語の1つにした。「土を喰う」が直訳だが、使われ方は違う。「消費のし過ぎでスッカラカンになった」というアッケラカンとした意味で用いる言葉だが、「土」を用いている。

 言いたいことは、この1枚の図画が生まれた背景であり、私の心を大きく揺さぶった事柄の反省だ。当時の私は、文字通りに必死の思いで、子どもなりにココロを痛めて生きていた。その目で見れば、「カジノ」や「喫土」の問題は、背筋に冷たいものを感じさせる。

 この図画は「金賞」をとり、母をずいぶん喜ばせた。私の肺浸潤を気にしていた母は、思わぬ息子の絵に、ホッとするものを感じていたのではないか。その後、絵具や絵筆代はケチらなかったし、油絵の道具も買わせてもらっている。

 だが私は、もっと確実な生きる道として「土」を選んだ。鶏(当時は20羽の養鶏を担当していた)や野菜との共生を選べば、一人でも生きてゆけると考えていた。子どもなりにそう思いつめていた。その目で見れば、今は残酷な時代になった。

 それは、このたびの鳥インフルエンザ問題が象徴している。機械的に多くの鶏を皆殺しにした。放っておけば生き残るはずの多くの鶏を、何十万羽も殺した。

 野鳥に移されたのだろうが、野鳥の世界では、弱いのが死に、残りの多くの強いのは生き残り、自力で未来に備えている。生き残った野鳥は、敵が次回より強く進化して襲って来るまで、堂々と生きてゆくことだろう。その時もまた、強いのは生き残る。人間に飼われた鶏は、そうはゆかない。進化の機会を奪われている。

 どん底にあった私は、「ヒトサマの迷惑にならないように」と自分に言い聞かせ、それを生きるカテにしていたように思う。だから「特攻隊員に憧れた」のだし、よき死に場所は何か、とも考えていたように思う。

 この図画は、不治の病と思われていた病原菌に浸潤され、敏感になっていた子供が描いたが、こうした覚悟や意識が描かせたように思う。もちろんそれにもキッカケがあった。

 この図画を描いた翌年のことだ。中学生になった私は「案の定」また検診で引っかかった。開放性ではない、ということで通学は許されたが、体育の時間は「見学」を命じられた。問題は、事情を知らない体育専任の教員だった。見学を決め込んでいた私に、「お前は、特権階級か」と皆の前で怒鳴った。事情を知った後も、謝らなかった。当時は日教組が華やかなりし頃、だったのだろう。

 私はこの教員を少しも怨んでいない。むしろ私は、ノビノビしていた先生に憧れている。もちろん「ナニクソ」という心境にもされたし、さまざまな覚悟もさせられたように思う。間違いなく「弱い者イジメだけはすまい」という心構えを授けられた。同時に、弱さを売り物にする者にはなりたくない、という心も植えつけらえたように思う。

 かなり後年のことだが、今度は渡月橋の欄干(北西)に寄り添い、しばしたたずんだこともあった。「白く濁ったダン」が出た時のことだ。まず「ざまあみろ」とタンに呼びかけ、次の瞬間手塚治虫の漫画を思い出した。恋人に憧れる主人公になったつもりで読み進んだが、黒いタイツが似合う恋人が突如いなくなった。舞台は結核患者の体内であり、恋人はタンと一緒に吐き出された、のだ。なぜかこの恋物語を思い出し、「ゴメン」という気分にもなったし、「そうであったか」と生きる自信を深めている。

 私のカラダに棲みついた結核菌は、私が死ねば「生きる世界」を失うわけだ、と気付いたからだ。なぜかこの時、結核菌としばし対話をしたが、とても懐かしい。

 もちろん、人それぞれ、と言われてしまえばそれまでだが、当時の教育や、それを当たり前と思っていた社会も、それなりにヨカッタように思う。今の世の中より、多様性を認め合っていたように思う。少なくとも、経済的な物差しで、今ほど人の上下を見ていなかった。むしろ、「清貧」を尊ぶ心が普遍していたし、そのココロが私に「清豊」の道を切り拓くことを気持ちにライフワークにさせたように思う。、

 なぜか、1枚の図画が、このようなことまで思い出させた。