こうした企画展(先週覗いた「Where culture meets
Nature」展)が大いに流行り、高く評価される世の中になってほしいに、と思う。社会がこのような4次元的構成の企画展を常設化させる時代になることを、ひたすら願う。
実は、書斎には私が己を見失いかけたときに、フトいじくっている小さな世界がある。「大局着眼、小局着手」とか「スパンは広く」などと己に語り掛けながら、ほこりを払ったりする。とても雑多なコレクションだが、それぞれに思い出がある。
「Where culture meets
Nature」展では、私は、苔とカタツムリのコーナーでしばし立ち止まった。それは私にとって、それらがとても身近な存在であるからだ。あえていえば、それらを健康のバロメー^ターであるかのごとくに位置づけて、尊重してきた、といっても過言ではない。
ある日、庭仕事をしている時に、人生とは「コケとの切磋琢磨」の関係ではないか、との心境にされたことがある。妻はまだコケには至っておらず、さしずめカビが相手だろう。それはともかく、わが家ではさまざまなカビや苔が奔放にはびこり、それは尋常でない。というより、それらがはびこるように仕向けてきたようなフシもある。
実は、そうこうしている間に、目に見える世界より目に見えない世界の方が、はるかに尊く思われるような心境にされた、と思っている。そうした心境に至る過程で、それはどうしてか、とか、なぜそうなのかなどと、いろいろなことを考えるようになった。それがヨカッタ。「腸内フローラ」とか「のフィトンチッド」などの概念は、とっくの昔に私のココロの中では固まっていた。同様に、多くの認知症は、いずれは生活習慣病の1つになる、と言ってはばからない心境にもされている。
畑仕事をしていた時に、ふと手を止めたことがある。それが小さな巻貝との出会いであった。「どうして畑に」との不思議な思いが、やがてそれは陸貝であり、庭の住人であるとの知識に結び付けた。その頃から20数年が過ぎ去り、「このところ減って来たナ」と心配した時期がある。それが1つの節目になった。ある日、その原因に気付かされたからだ。込んだ阪急電車の中で、新聞を読もうとしてかなわず、老眼のせい、と気付かされた。この気付きは大きかった。加齢対策の必要性だけでなく、「よく考えてみれば」すべての人は身障者なンだ、と考えるようになった。
このたびの企画展では「魅力あるカタツムリの世界」は西宮市貝類館の提供だった。もっと詳しく眺めていたい、と思ったが、それは西宮市貝類館を訪れる機会に任せよう、と考え直した。わが家の庭に棲んでいるさまざまなカタツムリのことを思い出したからだ。「これは」と思う殻を見つけると1つの器に放り込んで来た。
このたび、その器を探し出し、野口さんにも見てもらおう、との思いがココロに育ち始め、気もそぞろになった。そして、その器を取り出して調べると、色柄が風化しており残念だが、素人目にも10種ほどは庭に棲んでいそうだ、と分かった。
ある時、異常に発生し、不気味に感じた種の殻もあったが、その後はその小型をときどき見かける程度になっている。気象変化のせいか、私のせいか、あるいは天敵のせいか、などと心配したが、その理由は分からずじまい。
いずれにせよ、カタツムリの種が減らないようにすることが、あるいは苔があまりはびこり過ぎないようにすることが、つまりその両者がほどよくバランスを保ちうる住環境が大切である、と思うようになった。本当に美しい空気とか、美しい水とは何か。それらは、そうした生物が多様に棲みつき、ほどよく住まい続ける環境の賜物ではないか。
過日、シイタケの胞子が、霞のごとくにたなびいていた。もちろん私はおもわず深呼吸をした。そしてそのシイタケを採り、ソテーにして体に同化させた。
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