国家への当てつけ

 

 本来、「国家が成す」なり、「国家が奨励して成し遂げる」なりすべきこと、とは何か。この根本を、ボツボツ「人類」は考えるべき時だと思う。

 なぜなら、「人類」は地球の限界に気づき、限られた地球の中で、いかにすれば「人類」として幸せに生きることができるか、ボツボツ真剣に考えるべき時だ、と思うからだ。

 今話題のTPPやグローバリズム、貧富格差や難民問題、あるいは様々な地域でのさまざまな紛争など。何かがおかしい。元をただせば、それらはお互いに身の程を忘れ、身勝手なことを考えての事象や現象ではないか。マッチポンプてはいないか。

 こんなことを、また、ふと考えた。また、とは、これは私にとって、1973年来の課題であったからだ。オイルショックを体験し、それまでの経験をふまえ、それほど時間をかけずに思いついたことがあった。それは己の「生きる理念」と人類にとっての「第四時代」。

 その目で見れば、わが国は方向転換を怠り、間違った方向のままに突き進んできた。とりわけ現政権になってから、身の程を忘れた酷いことを始めてしまった。武器輸出を可能にした。表立って海外派兵ができる国にした。防衛省が大金を振る舞い、大学との共同研究を可能にする国にしようとしている。挙句の果ては、カジノ合法化が景気浮揚の目玉になると言い出し、強引に現実化しようとしている。

 わが国は今、じり貧状態にある。日本がGDPを1.5倍ほどにしていた間に、世界はおよそ4倍にしていた。アメリカはおよそ3.5倍、中国は25倍に伸ばしていた。この数字をどう見るのか。どう見て、どう振る舞うべきか。どう振る舞えば、身の程にあっているのか。世界の平和平穏にこうけんできるのか。

 なぜ乱暴な亭主を尻に敷くがごとき女房的存在を目指さないのか。日本と、日本国民には、その役回りの方が向いている。それが無理なら、せめて「金の卵を産むガチョウ」のごとくに、殺せばすべてを無にするような存在の国家を目指せないのか。

 こんなことを、また、ふと考えた。そして、あほらしくなって、自分なりに身の丈にあったことをするのが肝心、と立ち上がった。それは、「もし私が国家なら」と30年前に考えて、手を打ち始めたかったことの1つだ。

 「もし私が国家なら」国じゅうの街路樹(今なら200万本ほどありそう)の樹種(300種近くあるのではないか)を換え始めたい、と考えた。その土地柄にあった「実のなる木」に切り替える。イチョウ並木なら、ほとんどが今はまだ(臭い実が落ちない)オス木だが、メス木に変えたかった。もちろんもっと生きる上で有効・有用な樹種もあろう。

 また、こんなことを考え始めていたことに気づき、あほらしくなった。だから、「国家が成す」なり、「国家が奨励して成し遂げる」なりすべきこと、自分なりの総仕上げに、と立ち上がった。いわば国家への当てつけだ。