「反対側」も話題に

 

「真とも」が真ともでなくなる時勢だ。たしかBBCだった。昨年の流行語に「ポストトゥルース」を選んでいた。人々の心は浮ついている。だからデマにひっかかる。イギリスのEU離脱もデマが、トランプ誕生もデマが、と数えあげたら切りがないほど世界はいつわりの情報に操作され、予想外の結果に結び付けてしまった。そのツケはいずれも高く着きそうだ。

 わが国も自作自演した。外に向かっては、「放射能をコントロールしている」「ブロックしている」とのウソで引っかけ、内には7000億の税金投入と言って国民を引っかけた東京オリンピック。ロンドンオリンピック方式という良き手本があるのに学ばず、国民に何倍もの負担をさせても、オリンピックなら国民は文句を言うまい、と高をくくっていたわけだ。その狙いはGDPの増大だ。

 問題は、いと昔前に、多くの人が「量から質ヘ」とか、「モノからココロへ」などと叫び、「量」や「モノ」の面からの発想ではなく、視点を「ココロ」や「質」に変えなくっちゃ、と睨んでいたことだ。にもかかわらず「アホノクス(と呼んだ経済学者がいる)」は「量」や「モノ」にこだわり続けてきた。その時代遅れの意識はオリンピックで済まず、万博誘致や、国民をギャンブル症候群に陥れかねないことまで考えてしまう。困ったものだ。

 もっと問題なのは、その「経済最優先」というスローガンに引っかかる人が多いこと。GDPが増えれば豊かになる、と信じている人が多いこと。それは、未来世代に負担をいやほど押し付ける浅知恵であるだけでなく、破綻の到来を加速していることに気づいていないこと。

 もう一度、視点を「量」や「モノ」ではなく「ココロ」や「質」に換えなければ、との意識していたころを思い出したい。その視点の転換こそ、私は「反対側から眺めること」と思っている。「ややこしい世の中だが、反対側から見たら丸見えでだ」と叫びたくなった根拠だ。

 まず、加害の立場を返上し、被害の立場から考えたいものだ。たとえば、人間の都合で考えるのではなく、人間のせいで絶滅の危機に追いやられている野生動植物の都合を優先してはどうか。

 人間の繁栄を謳歌させる触媒のごとき文明ではなく、自然との折り合いを原則とさせる基底文化を観直してはどうか。

 そのためにはまず、誰にでもお金さえ出せば買えるモノやコトへの関心を見直し、それらに憧れる心を改めることではないか。なぜなら、誰にでもお金さえ出せば買えるモノやコトはすべて、潜在的廃棄物と見てよいだから。流行に左右されて、刻々とゴミになってしまう。そうではなく、いくらお金を出しても買えないモノやコトにこそ視点を移し、尊ぶべきだ。たとえば絶滅の危機に追いやられている野生動植物。一旦失えば、人類が持ち合わせるすべてのお金を投じても買い戻せない。穏やかな気候、あるいはきれいな水や空気もその範疇だろう。

 問題は、これらを人間が疎かにすればするほど、貧しい人間ほど、弱い人間ほど、ますます窮地に追いやられかねない。絶滅の危機に追いやられている野生動植物を護る、と言うことは、自分を守るということだと思う。

 根本は現行の法体系をどう見るか、だ。たとえていえば、明治憲法。いまさら、私たちは明治憲法を受け入れられないが、現行の法体系も、早晩同様の位置づけになる。それどころか犯罪的な存在になリ、ガラリと変えざるを得ないだろう。

 これらは反対側から見たら、丸見えだ。だから私は、2025年ごろにわが国は破綻する、と見ている。それは恐れることではない。喜ぶべきこと、新しいわが国の誕生だ。