的確な助言

 

 「まだやってはるの」が第一声だった。「お行儀の悪いこと」、そんなこと「あんまりするもんやないよ」と続いた。それでもポカンとしている待ち伏せ常習者に「お掃除は、お客さんがみえる前に、朝のうちにしとくもんよ」と言って聞かせ、「第一、お客さんに手箒かざして道〈を〉教えるなんて、どういうこと」と声が厳しくなった。

 ここまで差し掛かった時に、私は思わず「人生で最初に緊張した一時期」を振り返った。それは、生れて初めて、早くこのような大人になりたいと真面目に願い、大人に憧れた瞬間でもあった。

 その思いは幾度かにわたり、何かに記してきた。ひょっとしたら「どこかに残っているに違いない」と、考えた。結果、思いついたことがある。それは、真面目な意味で「人生で」と「キット2度目に緊張したあの時であったに違いない」と思ったが、その通りだった。

 短大勤めは、覚悟の上で誘いに乗ったとはいえ、いざ吾が頭上に学長の白羽の矢が立った時は緊張した。会社勤めではついぞ覚えたことがない緊張だった。

 短大に勤め始めて6年が経過していた。定員割れは深刻の度を増していた。正規の短大ですら次々と姿を消していた頃のことだ。またその時、病床にあった母の余命がいくばくもない状態に差し掛かっていた。だから緊張したのではない(自活のススメ 最終回「借りものは早く返す」)なんとしても学生を「母校が実存しない立場」に追いやりたくない(自活のススメ 63「意識の転換が先」)との思いが重く心にのしかかった緊張だった。それまでは勤労学生が主の学校であっただけに、誠実で実直な学生がほとんどだった。そうした学生にたいする彼女たちへの緊張だった。

 あてにできる教員と真摯に手を携え、素朴で真面目な在校生の協力を当てにして、構造改革を断行しよう、と決意した。そう心に決めたときの緊張した気分をありありと思い出した。

 まず、就任が内定すると同時に、こうあって欲しいとの願とを「一隅を照らす」と題して、さらに決定後ただちに、若き日の私を育てた「5人の恩人」と題して文字で伝えた。次いで、就任と同時に学生に集まってもらい、言葉で「3つの約束」をした。後者は、産経新聞の「自活のススメ」で紹介したが、前者は、たしか、と考え、探し、「やはり」あった。記憶通りに触れていた。

 「まだやってはるの」が第一声で、「お行儀の悪いこと」とたしなめた女性の思いを、私は間接的だが、小学低学年の時に学んでいる。2人の大人の間に挟まれて、とても緊張させられ、ついには「早く大人になりたい」と願わせられた出来事だった。たしなめた女性が「第一」と声を荒げ、「お客さんに、手箒かざして道〈を〉教えるなんて、どういうこと」と厳しく叱った時に、私は「ハッ」としたが、オカゲで当時をありありともい出すことが出来た。

こうした思いが幸いしたようだ。 私は有料の広告を控えさせるなど、ケチケチ運営を展開したが2年度に定員オーバー、もちろん全入政策など取らせなかったが、3年目は全学科が定員オーバーになった。それはひとえに、教員と学生のおかげだった。学生たちの卒業高校を訪れた折に、教員から彼女たちが「この短大は良い、と後輩に語っていた」ことを知らされ、また緊張した。