どれほど心の励みになったことか

 

 この日は「一面の銀世界」に感動! から始まった。だが、すぐさま「雪に閉じ込められたようだ」との不安も頭をよぎった。ほどなく「雪かきに、これから伺います」との応援の電話をもらった。「ありがたい」。これぞ心の支えだ、と思った。

 この日、妻はいち早く偵察に出た。やがて小倉池対岸からの定点撮影もし、銀世界の集録もし、臨時休業を心に決めて戻って来た。この間に、応援の電話をもらったが、「お願いします」と応えていたらすぐにも駆けつけてもらえていたことだろう。おそらく、自邸の雪をそこそこかき終え、「もう、この時間なら」と見計らい、かけてもらえた電話であった、と思う。丁重にお断りした。

 翌朝、雪は前夜のうちに降り増していたが、妻が喫茶店を開けると決めた。その後で、礼の電話を入れた。なんとか持ちこたえられたとの報告と、今後いつ何時、どのようなことで応援を頼みたくなるかもしれない、と伝えた。近所に、頼みごとで駆けつけてもらえるこうした人に恵まれることが、どれほどありがたいことか。私にとって、これは1つの反省であり、学びでもあった。

 私は逆に、こうした当てにしてもらえる存在であったのか、との反省。次いで指折り数えてみるとご近所で、こうした学びをこれまでに3度にわたってしていたことに気付かされた。幼児期の疎開でこの地に棲みついたが、まず栄生さんをはじめとした七変人に巡りあえた幸運を思い出した。

 七変人は当時、母を含めて周りの人たちから煙たがられ、変り者扱いされていた。だが、子どもの私には一番慕いやすかった。そして後年、日本は一転したが、そして刻々と社会情勢は変化したが、七変人の考え方や行動はブレず、変らず、子ども心に「信頼」という言葉の意味を体得させられた。

 次は、少年期から青年期にかけての知的障碍者の源ちゃんだ。母は優しくしたが、周りの人たちから馬鹿にされ、相手にされていなかった。だが、私は信頼の度を深めた。最初は、翌日の天候を確実に的中させることに感心した。やがては七変人と同じで、世の情勢変化にはいささかも流されず、搔き乱されず、信じたことや思ったことをそのままポツリと口にすることに惹かれた。

 そして、サラリ―マン時代の常寂光寺のお聖人だ。商社時代はハイジャックがおお流行りした時代だったがしばしば海外出張があった。アパレル時代はこれに加えて、社会的に危険と見られる人たちと対峙しなければならない立場にあった。2週間とか5週間以上といった留守もしたが、少しも妻は動揺の色を見せなかった。その訳は、こうした時期が終わった後で知ったことだが、妻は「困った時はいつでもお聖人のところに駆けつければヨカッタのでしょう」とケロッとしていた。

 思えば近所で、こうした人に私は恵まれていた。妻も多々そうした人に恵まれている。にもかかわらず、私は当てにしてもらえる時期を無に過ごしたのではないか。そして今、またヒトサマを当てにしないといけない歳になったしまった。シマッタ、と思った。

 


「一面の銀世界」に感動! から始まった


小倉池対岸からの定点撮影

銀世界の集録