大学を巻き込もうとしている「軍事研究」

 

 あまりにもやり方が赤裸々、と悲しくなる。だが、お金以上に信ずべきモノに見失った国、日本のことだ。「転ぶ人」を続発させるのではないか。

 このところ国は、大学への支援金をどんどんケチっていた。その前に、国立大学にはお金の面で自立をささやきかけ、窮地に立たせていた。それがプロローグだったンだ。

 なぜか防衛省が、安全保障技術推進制度を設け、15年度は3億円の予算を付けた。そして昨年度は6億円に。ならば今年は12億円か、と思いきや、110億円と言う。にわかに色めき立った。軍事研究との分かりやすい言葉も広まり始めた。さあ、日本学術会議はどうするか。転ぶ人を生み出すのではないか。まことしやかな屁理屈を着ける人を生み出すのではないか。

 そんな不安もあって『沈黙』を観に行った。宗教に救いを求めてしまった人が、いかに「転ぶか」。救いを宗教に求めざるを得なかった人が、そこに追い込んだ人にいかに転ばされるか。転ばされる人と転ばす人。転ばす人と転ばさせる人。その葛藤を観に行った。

 妻や子や親の命も売り渡し、転ぶ人も出る。転ばせる人の、したり顔。もちろんこれも手先で、その上がいる。それらの葛藤を私は観に行った。妻は、私の意図を知らないものだから、カラダを痛めつけたりココロをいたぶったりする光景に辟易していた。

 私は、「軍事研究」費に転ぶ人、まるでココロをいたぶられ、カラダを売りながら、賢い人と褒められる学者を連想しながら、見た。私がいたぶられる身でないことを安堵した。

 1949年1月に日本学術会議は発足している。喧々諤々の末、4月に声明を発表。「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない」との決意の表明だった。学術会議が、わざわざ「絶対」という言葉を用いた当時の空気はよく理解できる。時の勢いに流されて5万とも13万ともいわれる学徒を戦場に送り込んだ反省もあったはずだ。その消息すらきちんと把握できていない時点であったのだから。もちろん今も、明らかにはされていない。

 その後、朝鮮戦争が始まる。進駐軍は朝鮮半島に出かける。その家族や日本の要人を誰が守るのか。警察予備隊を創るだけで充分か。2年後、GHQは日本政府に兵器の製造を指令する。日本学術会議は色めき立つ。GHQは、1945年9月には、原子力研究の禁止だけでなく、航空やレーダーなどの研究も禁止していたからだ。この空気の変化を読んで、日本学術会議は原子力研究の3原則「公開・民主・自主」を明らかにし、核兵器研究には携わらない、と誓っている。

 これからの日本は、真の安全保障を考えれば、「公開・民主・自主」を守れるか否かにかかっている。公開の出来ない研究は、理屈はどうあれしてはいけない。そんな想いもあって『スノーデン』も見たくなった。アメリカはいつスノーデンに、アメリカ最高の栄誉賞を与えられることになるのか、とフト思った。公民権運動のきっかけをつくったローザ・パークスに与えた賞のことだ。いつスノーデンが、ローザ・パークスと同様に、真の愛国者であったことに気付いてもらえるのだろうか。

 そんな想いで私はこの映画を観たが、妻はよく居眠りをしていた。「字幕は疲れます」とか、「ちょっと居眠ったら、サッパリ筋が解らなくなりました」などと言い訳をしていた。

 「そうか」と思った。「この人が信じる宗教は『自然の摂理』なんだ」「自然の摂理に畏怖の念を抱いているのだ」と思った。「ジャングルブック」はあんなに喜んでいたのだから。