高橋是清の提言に従っておれば

(日曜に想う)100年前の文部省廃止論

朝日新聞2017年2月5日
                                                                  
編集委員・曽我豪
 

 高橋是清(1854〜1936)はもちろん、幾度となく戦前の日本経済を救った希代の国際金融政治家である。ただ、もうひとつの大事な顔がある。自由主義がもたらす恩恵を信じ、官僚主義や軍国主義と闘った政党政治家のそれだ。

 なかでも面目躍如たるのは、原敬内閣の蔵相だった1920(大正9)年に提出した「内外 国策私見」だろう。
 第1次世界大戦後の国際協調と大正デモクラシーの時代だった。その変化をとらえ、内閣の統制が及ばない陸軍参謀本部と海軍軍令部の廃止や、農商務省から農林、商工両省への改編などを意見した。そのラジカルさは軍部の反発を恐れた原首相が印刷を差し止めたほどだった。後に高橋が蔵相として軍事予算の増大に抗して陸軍若手将校の恨みを買い、2・26事件に倒れたことを思えば、歴史の因縁でもある。
 


「手をつなぐ」 絵・皆川明
 だが先見性に富んだ「私見」の射程はそれにとどまらない。最後の第4項目で高橋は、文部省の「全国画一的」な教育行政を憂え、「発奮努力の精神を喪失せしむる」弊害を指摘してこう提言した。
 ――小中学校の施設経営監督は地方自治体に委(まか)せよ。大学への国庫補助は必要かもしれぬ。だが学長選挙も内部行政も文部省の手を煩わせず大学に自治の精神を発揮させよ。官立大学の特典を廃止し私立大学と自由に競争させ学術の発達進歩を計れ。文部省は一国にとりて必ずしも必要欠くべからざる機関にあらず。

 結論は表題に明白だ。

 「文部省ヲ廃止スルコト」

 永田町界隈(かいわい)でひどい話はさんざん見聞きしてきた方だが、今回の文部科学省の天下りあっせん問題には息をのむ。

 言うまでもなくこの役所は、私立大学に対し設置認可などの許認可権を持ち補助金を交付する立場だ。利害関係などというのは生やさしく、大学側からみればまさに生殺与奪の権を握る「特権」的な存在なのである。

 にもかかわらず、大学担当の前高等教育局長が早稲田大へ「天下る」よう組織的にあっせんしていた。官製談合事件の反省から改正された国家公務員法の禁止のルールを踏みにじる違法行為である。

 しかも現職の事務次官が審議官だった時にあっせんに関与しており辞任した。隠蔽(いんぺい)のため早稲田大に口止めし、口裏合わせの想定問答集まで用意していた。そこまで明るみに出ていて、さすがに調査は完全に第三者に任せるかと思いきや、それさえ曖昧(あいまい)なままだ。

 責任意識の欠如であり、世論に対する鈍感さである。次世代の子供たちを育てる教育において、不平等とか特権といった問題は、市井の人々の神経を逆なでせずにはおかない。それは、不正入学問題が大統領引きずり降ろしの街頭デモに火を付けた韓国の例にも明らかだ。

 それでなくとも、この役所の場合、時代の変化と並走しようとする責任意識が感じられない。昨夏の参院選での18歳投票開始に向け、全国で主権者教育の取り組みが活発化したとき、この役所は指導書や通知で「教員が個人的な主義主張を述べることは避ける」と繰り返し、注意点や禁止、規制を事細かく列挙した。

 むろん、極端な政治的支持や反対を教え込む教育は論外だ。だが主権者教育とは、自由な議論と試行錯誤によって最適解を探し出すものだ。その時代的意義より管理を優先させる「べからず集」は結局、学校現場の「発奮努力の精神」を萎(な)えさせるものでしかないではないか。
  
 平地に波乱を起こすような廃止論を唱えるものではない。だがこうは思う。

 なぜ今この時代この国において、科学でも文化でも体育でもなく、文教事務を国家が統括する「文部」を頭に冠した役所が存在する必然性があるのか。

 責任を負うべきところで身をかわし、自由に任せるべきところで管理を持ち出し、特権を慎むべきところで守ろうとする。そうしたちぐはぐな行動様式を改めない限り、その必然性を感じさせることは難しい。百年たっても、「必要欠くべからざる機関」であることの挙証責任は他でもない、文部官僚たちにある。