マレーネ・デートリヒ
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帰国の途にあったドイツ隋一の女優マレーネ・デートリヒは、ラジオから流れるヒトラーの演説を聞いて、途中の寄港地で下船。その後、ヒトラーに幾度となく帰国要請を受けたが無視。逆に、厭戦歌「リリーマルレ-ン」を引っ提げて連合国兵士の慰問に情熱を傾けた。 1日も早いナチスの敗北が、ドイツの国やドイツ国民の幸福に結び付く、と見たのだろう。母をドイツに残していた。もちろん当時は、ナチスに熱狂するドイツ国民から彼女は「売国奴」とののしられ、怨まれた。母親は肩身の狭い思いをした。 しかし戦後は、ナチスが間違っていたことに気付く人が増えた。その目覚めた人の比率が高まるにしたがって評価が変わり、ついにはマレーネ・デートリヒこそが真の愛国者であったとみなされるようになった。 東西ドイツの統一後、新首都ベルリンにマレーネ・デートリヒ通りが誕生した。 ロンメル将軍。 アフリカ戦線では戦車戦が主だったが、ロンメルは連合国兵士から「砂漠のキツネ」と恐れられた。その恐れはやがて畏れにかわり、敵ながらあっぱれな人との評価が固まってゆく。 アフリカ戦線でも連夜、マレーネ・デートリヒが歌う「リリーマルレ-ン」が電波から流れた。それは連合国軍兵士を慰問するために歌ったものだが、ドイツ兵も耳を傾け、母国や母国に残してきた恋人や家族を偲んだことだろう。それを励みにしてロンメルの緻密で過酷な作戦に耐えたのだろう。敵ながらあっぱれ、と畏れられる戦いをした。 ドイツの将軍は土地貴族 (ユンカー)の出身が多かったが、ロンメルは中産階級(父親は数学の教諭から校長に)の出身で、例外的存在だった。当初はヒトラーもロンメルを有能な将軍ゆえに尊重したが、次第に遠ざけてゆく。ロンメルは長男がナチの少年機関に入ろうとしたのを止めた、と言われる。ナチではなく、真の軍人であり、軍人の職務に忠実だったのだろう。 戦後も、ロンメルがマイナスに評価されないのは、ナチにも親衛隊にも属さなかったこと。ヒトラー暗殺計画に関わったとされ、最後は自殺に追いやられ、悲劇的な死を遂げたからだろう。 ナチス時代の将軍や元帥などの名前が連邦軍の艦船に付けられたことはないが、例外がある。ロンメルだけは(今は廃艦になったが)駆逐艦名に用いられたことがある。ここにも、ドイツや欧州の人たちの峻別能力が認められそうだ。 彼の長男マンフレッド・ロンメルはシュトガルト市長といて市民から尊敬された名市長であった。それだけでない。「エルサレムの守護者」の名誉号を受けた。それはシュトガルト市長としてエルサレム市にたいする福祉や文化の面での貢献が評価されてのことだが、それだけでなない。 父ロンメル将軍の人格にも負っている。ロンメル将軍は、支配下にあったアフリカ戦線では、ユダヤ人に対する迫害や蛮行を部下には許さなかったからだ。 畏れと恐れ、そして峻別能力。このありようが、つまり民度が、これからの国の栄枯盛衰を支配するだろう。 |