ロンメル将軍
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アフリカ戦線では戦車戦が主だったが、ロンメルは連合国兵士から「砂漠のキツネ」と恐れられた。その恐れはやがて畏れにかわり、敵ながらあっぱれな人との評価が固まってゆく。 アフリカ戦線でも連夜、マレーネ・デートリヒが歌う「リリーマルレ-ン」が電波から流れた。それは連合国軍兵士を慰問するために歌ったものだが、ドイツ兵も耳を傾け、母国や母国に残してきた恋人や家族を偲んだことだろう。それを励みにしてロンメルの緻密で過酷な作戦に耐えたのだろう。敵ながらあっぱれ、と畏れられる戦いをした。 ドイツの将軍は土地貴族 (ユンカー)の出身が多かったが、ロンメルは中産階級(父親は数学の教諭から校長に)の出身で、例外的存在だった。当初はヒトラーもロンメルを有能な将軍ゆえに尊重したが、次第に遠ざけてゆく。ロンメルは長男がナチの少年機関に入ろうとしたのを止めた、と言われる。ナチではなく、真の軍人であり、軍人の職務に忠実だったのだろう。 戦後も、ロンメルがマイナスに評価されないのは、ナチにも親衛隊にも属さなかったこと。ヒトラー暗殺計画に関わったとされ、最後は自殺に追いやられ、悲劇的な死を遂げたからだろう。 ナチス時代の将軍や元帥などの名前が連邦軍の艦船に付けられたことはないが、例外がある。ロンメルだけは(今は廃艦になったが)駆逐艦名に用いられたことがある。ここにも、ドイツや欧州の人たちの峻別能力が認められそうだ。 彼の長男マンフレッド・ロンメルはシュトガルト市長といて市民から尊敬された名市長であった。それだけでない。「エルサレムの守護者」の名誉号を受けた。それはシュトガルト市長としてエルサレム市にたいする福祉や文化の面での貢献が評価されてのことだが、それだけでなない。 父ロンメル将軍の人格にも負っている。ロンメル将軍は、支配下にあったアフリカ戦線では、ユダヤ人に対する迫害や蛮行を部下には許さなかったからだ。 畏れと恐れ、そして峻別能力。このありようが、つまり民度が、これからの国の栄枯盛衰を支配するだろう。 |