入魂式のごとし
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「何よ、コレ」と妻は言いたげだった。思い出の品を10数分かけて並べ直し、透明のカバーをかける時に、妻を呼んで手伝ってもらった。ゴチャゴチャしている、と見たのだろう。「私なら、自然の造形物だけに絞ります」と、ポツリと言い残した。 もっと並べたいものはある。これでも随分絞り込んだ。化石採集や鉱物採集の石ころだけで、このケースがいっぱいになるほどある。だから、省いたモノと、並べたモノを眺め直したが、そこで分かったことがある。ここには買い求めたものはほとんどない、ということだった。 その例外の1つは、ニューメキシコで買い求めた1ドルの大きなアワビの貝殻。中央に綺麗な柄がある。2つ目は、アワビの貝殻と同じ海外出張時に買い求めた同じく1ドルだったフェイクコイン。この出張ではアワビとフェイクコインだけでなく、1ドルの様々なモノを土産として買った。その中にあったこの2つの品は私に大いなる学習をさせた。大げさだが「価値とは何か」とまで考えた。 1ドルの様々なモノを持ち帰り、会社の会議室のテーブに「お土産だ」と言って取り出した。1人の女子社員が、おでこから出たような上ずった声で「アミダ、アミダ」と叫んだ。やがて選択順位が決まった。4位までの人が、4種あったフェイクコインコインを選んだ。そして幾つかの品が残ったが、3つ買い求めて3つとも残ったのがアワビの貝殻だった。実は、一番「値打ちがある」と私は思い、重たいめをして持ち帰った品だが、すべて残った。誰一人として見向きもしなかった。 例外の2つ目は、恐竜のミニアチュア。「草食恐竜と肉食恐竜のともに王者」と知った時に、知った博物館で買い求めた。この草食恐竜の大腿骨が1つ壁面に飾ってあったが、私よりはるかに大きかった。広い博物館だったが、恐竜ブースしか見る時間がなかった。日本で、恐竜の化石が出るなんて思いもよらなかった時代だった。 3つ目はとても小さな「四ザル」。インドで買い求めた「お守り」。わが国では何故か「見ザル、言はザル、聞かザル」の三猿の戒めとして馴染むようになったが、元は四ザルらしい。この釈迦の像には8本の手があって、4カ所を塞いでいる。なぜ日本では、インド仏教では肝心と見た「せザル」を採り入れず、三猿の戒めにしたのか。それは「誰が」「なぜか」など、不思議に思い、買い求めた。三猿になったのは徳川家康以前か以後か、それだけでも知りたいものだ。 あとはすべて、もらったり、与えられたり、記念品として拾って帰ったり、あるいは自分でこしらえたりしたものだ。 見つけたものの代表は、泥の中から見つけた水晶だ。それまでは、岩からニョキニョキとタケノコのように育つものと思っていたが、そうとは「限らなかった」。この驚きは計り知れない。 |
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アワビの貝殻。中央に綺麗な柄がある |
1ドルだったフェイクコイン |
とても小さな「四ザル」 |
泥の中から見つけた水晶 |
拾ったものの代表は、死海で泳いだ時に拾った岩塩盤。そして砂浜で砂と見まがった貝殻。それは、イエスが数々の奇跡を起こした湖の浜辺から持ち帰った。 もらったモノの1つは「パンナムの社章」。機上で乗客(の子ども)がスチュワーデスにねだればくれた。プラスチックのフェイクバッチ。渡米するまでの私は、パンナムが世界1の航空会社だと思っていた。日本に乗り入れたのが一番というだけで、私は勝手に誤解していた。そうした誤解を2度としたくないものだ、と考えて(フェイクだが)パンナムがつぶれた時から大事にしてきた。 2つ目は、ゴールドのライター。当時はサラリーマンの憧れで、このゴールドが持てたら一人前、と私も思っていた。だから、もらった時は嬉しかった。にもかかわらず、もらった人は覚えていない。その後、持ち物で人を見ていた自分の意識を戒めたくなり、他山の石にしてきた。 22口径と45口径のピストルの弾の薬きょうもある。アメリカの射撃場でぶっ放した。ピストルは1ドルで、22口径の弾なら1セントで買える州があった。空の薬きょうなら拾って、日本に持ち帰っても犯罪にならない、と言われた。日本の38銃の弾丸もある。戦時中に射撃場で掘り出せば、わがものに出来た。犯罪は、国によって大きく変わる。この国家の身勝手さを肝に銘じたくて、つまり法律に煩わされないために、残した。病気と法律は2大役病だ。 父が使わなくなった名詞を活かして連合艦隊を2度造ったことがある。最初のは、母が踏みつぶした。理由は、「これを並べたら、試験官は合格にさせますか」だった。2度目のは、小振りにした。 ありあわせの木材で、無数の軍用機を作った時代もある。B-29と対峙した日本の戦闘機が中心だが、ドイツやイギリスの名機もある。 それらの中から、戦艦大和と2機の内外の戦闘機をこのケースに収めた。日本の幻のごとき戦闘機と、イギリスの戦後のジェット戦闘機だ。 それは、私のアタマが大きく右に傾いていた時代があるからだ。左に大きくぶれた時代もある。ともになつかしい。その後、人類はキット「戦争を起こすこと自体を犯罪と見る時代が来る」と信じたことがあり、その想いを思い出にしたくない、と念じて残した。 こうした品の仲間として、幾つかのバッジも収めた。退社するときに返納するのが通例だったバッジや、入社しないともらえないバッジがある。前者として伊藤忠のバッチを残した。なぜか私は返納を求められず、身元に残った。だから後生大事にしたわけではない。逆だ。私は自分から飲み屋に行くことはないが、そのグセを身に着けた時の記念の品だ。 初めて大阪のバーに繰り出したときのことだ。代金をとってくれなかった。当時、伊藤忠では、男子社員には胸章をつけて出社することを義務着けていた。そのバッジをつけたまま私はバーに繰り出した。代金をとられなかった理由は、後日分かった。必ず支払いに来る、と見ての判断だった。そうと知った時からバッジをつけるのがイヤになったし、自ら飲み屋には行かないことにした。 後者の1つはデサントのバッジだ。小さなダイヤモンド入りのペンギンのバッジもある。長い間、これ等のバッジに付け替える日を期待されていた。だが、伊藤忠に色々な釘を刺され、ついに行けなかった。そうした思い出として大事にしてきた。実は、釘を刺した1人が、伊藤忠の繊維部門の文章役員だった。私が慕っていた人だし、何故か階級で言えば10階級以上も上の人なのに、合いたいときにいつでも会ってもらえた。それは、私の提案で伊藤忠が「繊維原料の商社から、繊維製品の伊藤忠」へと転換したが、その決断者と提案者の関係であったからだろう。 実は、この転換はそう簡単には進まなかった。結局、ソフトウエアー会社の設立も必要になった。そうした一連の活動の上で、とても当てにした若手がいた。私以上に、年齢や役職にこだわりなく、思うところを誰にでも平気で語り掛け、実行に移す若者だった。繊維企画本部の若手社員であり、文章役員の秘書に選ばれた男だ。その立場をてらいなく、会社のためになるように活かした男だ。その若手が、繊維部門の機関紙の編集も担当した。その機関紙を私は存分に生かした。原料(一時製品)から製品(二次製品)への転換は、意識の転換が不可欠だった。 それもこれも、この若手があってのおかげでうまくいたように思う。後年、デサントは傾き、この男が社長になった時期もある。その時期にデサントは立ち直り、今は創業家から社長が出ている。 それだけに、この度も「あの男は、今頃」と振り返ったわけだ。その翌日に「田尻さんとおっしゃる方が」と妻がナイセンで知らせた時はビックリ仰天だった。仲間連れだったので、実に楽しいコーヒータイムになり、2人でまず記念写真を、と言ってもらえた。田尻さんはサントの社長時代に一度、「京都に来たついでに」と立ち寄ってもらえたが、会えなかっただけに、嬉しかった。なにせ38年ぶりの再会となった。 おかげで、わが小宇宙カプセルにとっては入魂式のようなことになった。 |
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死海で泳いだ時に拾った岩塩盤 |
パンナムの社章 |
戦艦大和と2機の内外の戦闘機 |
38年ぶりの再会となった |