心地よく迎える下準備が出来た

 

 かつてわが家で書生のごとくに逗留した伸幸さんが、家族連れで久しぶりに訪ねてくれることになった。長女は大学生になり、寮生活に入る。「お姉ちゃん大好き」の妹が一人とり残されるようなカタチになり、しかも多感な年頃だ。そんなこともあって、私なりに、2泊3日の予定をきっちり考えて、迎えることにした。

 時代は大きく変わる。それを好機と見る若い2人になって欲しい。どのような時代になっても、たくましく生きる人になって欲しい。この願いをフンワリと、五感で受け止めてもらいたくて、受け入れ準備を進めた。私が過ごしてきた78年も大変化の時代であったが、これからの1世紀も大きく変わる。それが、どう変わるのか、見通したくなる人になりたいものだ。

 そうした兆しを私は1973年に感じ取り、「ポスト消費時代」の到来と「生半可なスペシャリスト」は不要になる時代、と読んだ。わが国のGDPが半減することも視野に入れて来た。それだけに、わが国がまたぞろ足掻き、「ババを引くに違いない」との危惧の念を大きくしている。

 もちろん、時代はどうなるのかなど分からない。それはコンピュータ−の歴史を振り返るだけでも時代を読むのは難しい、と分かる。

 コンピュータ−らしきものは1945年にできた、と私はメモしている。そして、ポピュラー・メカニクス誌が、コンピュータ−の進歩を予測し、重さはわずか1.5トンになる、と1949年に記事にした。その後、大手コンピュータ−会社になったディジタルイクイップメント社の創業者は、1977年に「個人が家庭にコンピュータ−を置く必要などどこにもない」と語っていた。

 今日では、2025年には、コンピュータ−が人間の脳と同等の能力を持つようになる、と見られている。そして2050年には、コンピュータ−が全人類の脳と同等の縫力を持つに違いない、と予測するむきさえある。もちろん、その能力を備えたロボットも誕生していることだろう。

 そのころに、この若い2人は最も成熟した「人」になっている。「人」定義が、今とはずいぶん変わっていることだろう。今とはまた違う大きな格差問題がg生じていることだろう。

 そうした世の中に向かう中にあって、人間はどうあるべきか。何が幸せであり、何が豊かなのか。その時にどうしたら楽しくて誠実に生きてゆけるのか。

 ホンワカと、そうした時代を五感で感じ取り、帰っていって欲しい。