私たちは

 

 このところ、「2度あることは3度ある」で、深刻な思いに駆られていた。それだけに、私たちの場合は、そうとはならず、嬉しかった。むしろ「こうありたい」と最初から願っておけばよかったような結果になったわけで、「嬉しい」を通り越して「大団円」と浮かれた次第だ。

 さて、深刻な思いに駆られた「3度ある」とは何か。それは、わが国の副総裁の「ゥん?」と思わせられる読み間違いから始まった。副総裁は真面目腐った顔で原稿を読み上げながら「ミゾウユウ」と発言した。誰しもが前後の文脈から、原稿には「未曽有」という三文字の漢字を並んでいる、と分かったはずだ。もうとう私は「学識の有無」を云々(うんぬん)するつもりなどない。

 2つ目の似た事例に出くわし、「アレ!」と思わせられた。あるいは「マサカ」と、深刻な思いに駆られ始めた、と言いたいだけだ。それはかの総裁の「デンデン」問題である。たまたまこの場合は、私はTVの実況放送で目の当たりにしており「『云々』を読み間違えたナ」と、すぐに分かった。と同時に、先の「ミゾウユウ」を思い出し、不安に苛まれ始めた次第だ。「まさか」と、深刻な思いに駆られた、と言ってよい。あるいは「もしや」と、よからぬ憶測をし始めた、と言うべきだろう。

 いったい、この人たちが読み上げている「原稿」には、誰がどのように関わっているのか。当の本人の意向は含まれているのか。と疑わしく思わざるを得なかった。

 本来は、当の本人が答弁したい意向を明らかにし、秘書官や法律の専門家などの助言をえて完成させ、読み上げるべき文章ではないか。「ならば」このような読み間違いなど生じるはずがないだろう。それが、なぜ2度も続いて生じたのか。「まさか」「もしや」、である。

 「2度あることは3度ある」との諺があるが、「さて、どうなる事やら」と冷ややかな気分にならざるを得なかった。つまり、「まさか」や「もしや」の疑いは、これから生じかねない現象が明らかにしてくれるに違いない、と冷ややかな気分にされた、というわけだ。

 だから「モクト」に出くわすに至り、「やはり、そうであったのか」と思わざるを得なかった。衆議院議長が、「目途」を「モクト」と読み間違えたに違いない、と私は思った。私はもうとう「学識の有無」など云々( うんぬん)するつまりなどない。私はもっとひどい間違いをしばしば犯してきたし、これからも犯すだろう。

 だから、私は身近にあった「大辞林」をひいて確かめた。結果、「目途」は、本来は「モクト」と読むべきであり「めど」は「目処」ではないか。だが、共に似たような意味だから「目途」も「めど」と読むようになったのではないか、と憶測するに至った。

 さて、「まさか」や「もしや」との疑いとは何であったのか。

 そこまで野党を、彼らは舐めてかかっているのではないか、との疑いであると同時に、そこまで作文者に、彼らは舐められているのではないか、との不安でもあった。要は、彼らは、少なくとも「2度あった」分までは、作文者に与えられた原稿を、リハーサルさえせずにブッツケ本番で読み上げていたに違いない、との疑いだ。それで十分野党は抑え込める、と見て取っての油断ではないか、との疑いである。この疑いは、まだ晴れておらず、わが国の行く先に言い知れぬ不安を覚えている。

 もちろん、議事堂でも「2度あることは3度ある」ではなかったはずだと思っているが、私たちの場合は間違いなく「2度あることは3度ある」にならず、大団円となりヨカッタと思う。