暗澹たる気分
|
国有財産を、なんと考えているのか。第一に、この相手は払い下げて良い先なのか。日本の未来を見通した時に、むしろ逆で、最も不適切な教育方針の学校に払い下げたことにならないか。しかもそれが、破格ではらいさげられたわけだが、そんなことがあっていいのか。 他に、この先への払い下げた価格の何倍もの価格で「払い下げを求める学校」があったというから、この思いはなおされである。 なにも私は教育勅語が悪いなどと言うつもりは毛頭ない。教育勅語には共感する部分が沢山ある。農業社会の下に、富国強兵が求められた時代にあっては、必然の考え方であった、と言えなくもない。また、工業社会の下であれ、給与のためなら自我を忘れ、流れ作業に適応する人間を育てる上げることは有効であった、と言えそうだ。だが、時代が進み、つまりロボット化が進み、そうした要員の必要性は減じている。事実、多くの人が簡単にリストラの悲哀を舐めさせられている 他山の石としてトランプ現象もとらえておくべきではないか。工業社会体制下の先兵出会った人たちが、今や無用の長物化し、そうした人々の不満のはけ口現象と、トランプ現象を見て取ってよいのではないか。 コンピュータ−らしきものは1945年にできた、と私はメモしている。そして、ポピュラー・メカニクス誌が、コンピュータ−の進歩を予測し、重さはわずか1.5トンになる、と1949年に記事にした。そのころの私は、「そこまで小さくできるのだろうか」と半信半疑だった。 その後、大手コンピュータ−会社になったディジタルイクイップメント社の創業者は、1977年に「個人が家庭にコンピュータ−を置く必要などどこにもない」と語っていた。 現実はどうか。信じられなかったことが生じている。 今日では、2025年には、コンピュータ−が人間の脳と同等の能力を持つようになる、と見られている。そして2050年には、コンピュータ−が全人類の脳と同等の縫力を持つに違いない、と予測するむきさえある。今の私は「マサカ」と思っている。でも、同じ見損ないはしたくない。 ならば、今の子どもたちが大人になる頃は、そうした能力を備えたロボットが誕生していないとも限らない。その時に、日本はどのような国になっておればよいのか。そこまでの心配はせずとも良い、との声があって当然だと思うが、「せめて」との思いは残る。 せめて、縁あって袖の振れあう間柄では「個人はいかにあるべきか」程度のことは考えておく必要がある、言いたい。そのための富国強兵だ、と説かれても、今更「明治維新時の富国強兵」ではなかろう、と跳ね返し、対案ぐらいは用意しておきたいものだ。その意味でいえば、この学校の教育方針は時代錯誤と言わざるを得ない。 1945年の春に、10歳ほど年上の従兄が予科練に入隊した。その時のことを思い出す。私は勇ましく思い、7つのボタンを見上げたものだ。ボートをオールで漕ぎ、手のひらに出来た豆がつぶれた、といって見せてくれた。裂けた傷口に墨汁をぬり、木綿糸で縫った治療を見た。勇ましく思い、憧れた。だから、戦後も戦後、30歳近くまで、私は特攻隊員に憧れていた。 この学校は、こうした考え方をしかねない人を育成する上では有効かもしれない。だが、育成される人の立場にたってみれば、それでよいのか、と言いたい。 資源小国の日本にとって、このような考え方は、安全保障上では時代錯誤だと思う。日本と言う多様な人種が織りなしてきた国は、それこそ多彩な人財を最大の資産として活かすべきだと思う。金太郎飴のような人ではいけない。ロボットのような均一的正確さでは人財には数えられない、だろう。 イメージとしていえば、ゴッホ1人を例に挙げるだけで充分説明ができそうだ。ゴッホは、弟のテオから資金援助を得ていた。ささやかとはいえ、ステーキを食べたり、新しい服を買ったりするには十分なお金を受けていた。だが兄は、絵の具やキャンバス代に当て、それを生きがいとした。 ゴッホが、幾枚の絵を残したのかは知らない。だが、生前に売れたのは1枚で、15フラン。友人の姉が買い求めた、とものの本で読んだ、ように思う。仮に、100枚の絵を残したとする。今はそれが1枚で10億円は下らない。ならば一人で1000億円を稼いだことになる。この価格が100億円になれば、1兆円の資産を気付いたことになる。 江戸時代の日本は、芸術家はもとより、多様な工芸家を多々輩出している。今日でも、日本は漫画やアニメーション映画の分野で、すでに世界にかんたるものを築いている。こうした活動に生きがいを求める人を1人でも多くする教育、つまり権力が願う都合を詰め込む教育ではなく、各人がもって生まれた潜在能力の発揚を促す教育が求められているはずだ。本来のエデュケイション・才能を引き出す教育に転換すべき時だ。 日本は逆立ちしても世界1の軍備を備えたり、世界の警察官にはなったりすることはできない。生半可な武装の強化は、かえってアブナイ。 それこそ、キチガイニハモノになりかねない。ヒロシマと言いたい時に、パールハ-バーとのこだまが、あるいはナンキンとのこだまが返ってくるような国に、2度としてはいけない。 このような途方もない事を考えたくなるほど、このたびの「見え見えの事件」は情けなくなった。さてどう落ち着くのか。ごまかさせてしまうのか。モクトがたたない。ミゾウユウの不安が残る。 |