丁度60年前、進む大学が決まった私は、入学前に、わけあって祇王寺を訪れた。今は亡き智照尼さんに数本のモミジの苗木を所望するためだった。その1本がアイトワのシンボル樹になったわけだ。毎年、この木に登らせたテイカカズラの抑制という手入れしてきたが、最後はいつも、この木の徒長枝の切り取りで、今年は当週行った。
今年は剪定では、エゴノキは99%ほどの枝を切り取ったが、智照尼モミジの切り取った徒長枝は、量で言えばわずか(同写真の右側)だ、だが高い脚立に登っての作業ゆえに一仕事。
智照尼さんと母は入魂だった。智照尼さんの生涯に私はいたくココロを打たれていた。そこで、モミジの苗木を、と所望した。智照尼さんは、若かりし頃は大阪随一の美人芸者「照葉」として鳴らしたが、大学生と恋に落ち、生涯を約した。
母によれば、あろうことに、その男は就職すると勤め先の社長の娘と結婚した。「照葉」はその披露宴会場に、小指を切り取って小箱に入れ、送り届け、やがて「智照尼」になった。要は、母は、私にコンコンと女心を諭したかったようだ。なぜか私は空恐ろしくなり、今に至る。そして、「これでよかったのかな」とか。「これでよかったんだ」と考えたりしている。
智照尼さんには自叙伝もあり、母が残したが、私は未読。
世の中には、汚れに汚れた上で、あるいは好き放題した上で尼になって、それを売りものにしたくなる人もありえそうだし、「照葉」のようなひっそりとした生涯を送る尼さんもいるわけだ。照葉が余勢に選んだ祇王寺は、清盛に見捨てられた3人の美女が余生を過ごして庵の跡。
その尼寺でもらった苗木の1本は、小さな平鉢に植えて盆栽にした。もう1本は大きめの鉢に植えて、ともに土産として、半年後に活かした。そのスペアーに、と庭に植えた1本が今に至る。
土産になった2本のその後は分からない。送り先は、生涯の恩人であり、その玄関に盆栽は飾られ、鉢の1本はその庭に下ろしたが、その後はわからない。恩人が亡くなり、ついにその後、訪ねていないからだ。社会人になり、東京出張が増え、側まで足を延ばしたこともあるが、ついに瀟洒な門をくぐる気にはなれなかった。だから今も、ココロの中では私は23歳で止まっている。この記憶は、就職が決まり、挨拶に行ったときの年齢だ。「気にくわぬ 風もあろうに 柳かな」との句を授かった。
このところ、目に余るもの、
「その言葉を使ったら法律違反になりますから、別の言葉を使って押し通しています」と現場の悲鳴をよそに、国会で真面目にメモを読みあげた大臣。それでチョンになると読んでのメモだろう。
「万死に値します」と国会で神妙になれば「それでチョン」と心得たかのような高級官僚。教育上の立場からゆゆいき問題と自覚し、本当に自殺をすれば、謹んでこの言葉は撤回を要す。
歴史を逆行させるような学校に、国有財産を二束三文で払い下げた国。その学校の名誉ある立場に妻を立たせた総理。悪いことをしていたのでなければ、下ろさずとも済むははずだが。
こうした事態の多発を末期的症状と言うのではないか。
智照尼さんの凛とした姿勢や転進が懐かしい。
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