言い知れぬ心境

 

 花森安治は、東大を卒業と時を移さず陸軍に徴兵された。軍事教練に意義を見出せず、昇進の機会を得ぬまま、肺結核に倒れ、戦線を去る。その後が、すごい。

 大政翼賛会に勤め、並外れた活躍をする。私はまだ幼少であったが、脳裏にその努力の数々をとどめている。国民を鼓舞する戦争遂行の評語も生み出していた。だが、敗戦で現実を知る。

 小学1年生になっていた私にも記憶がある。夏休み中だったが、玉音の日の夕刻を待っていたかのように大人が路上で三々五々集い、立ち話をした。母の側で立ち聞きしていた私は「メカケってなに」と問いかけた。返事はなかった。大人たちは「男はみんな奴隷にされ、女はメカケニされる」と語り合っていた。おそらく大陸で、日本人がしていたことが、我が身に降り返ってくる、と心配したのだろう。鬼畜米英と教え込まれていた米兵だが、現実は違った。

 わが家の近隣にも米兵がジープでやって来た。鬼畜と思っていた米兵は、チョコレートもくれた。近隣にオンリーと呼ばれるパンパンがいたが、米兵のその接し方は日本の男より数段優しげであり、パンパンはいそいそと料理をして米兵の帰宅を待ちわびていた。

 花森安治は気付かされた。本来の国家は、国民の日々の暮らしを守ることを第一義にしなければならない。にもかかわらず、日本は逆に、それをムチャクチャにしていた、と気付かされた。何のために、国民を鼓舞していたのか。鼓舞して何を目指していたのか。

 朝ドラの『とと姉ちゃん』と、「現実が大きく異なるところはありますか」と私は小榑さんに質問した。編集長花森安治の下で、編集部長を務めていた人から「たくさんあります」と返って来た。雑用は大橋鎭子(しずこ)たちに任せ、編集業に特化できる出版社を花森安治は設立している。

 当初は『美しい 暮しの手帖』だった。その「美しい」は、用の美であり、機能の美であり、日々の暮らしを彩る美、であった、という。

 「美しいものはいつの世でも、
 お金やヒマとは関係がない。
 まいにちの暮らしへのしっかりした眼で、
 そして絶えず努力する手だけが、
 一番うつくしいものを、いつも作り上げる」
 という言葉を残していた。

表紙も話題になった。「そりゃ―そうですよ」「花森は、内容をすべて承知の上で表紙のデザインをしていたんです」。内容が、訴えんとする想いが、表紙に凝縮され、体現されていて当然、と言わんばかりの返答だった。

その表紙には画期がある。写真が活かされは始めた時期。女性のイラストが用いられ始めた時期。その女性も、強さを感じさせた時期と、優しさに切り替わった時期もある。

 「世界はあなたの前に、
 重くて冷たい扉を
 ぴったりと閉じている。
 それを開けるには、自分の手で
 爪に血をしたたらせて
 こじ開けるより仕方がないのである。
 そしていま君たちは
 その重い冷たい扉の前に
 立っているのだ。
 君たちはどうするのか」
 との問いかけも残している。

会場には、花森安治の声が流れるところがあった。

「ボクのテープをお貸し、してるんです」と小榑さん。
「ものすごく怒っている声です」
早朝3時の魚河岸の取材から帰った小榑さんとカメラマンは、こっぴどく叱られた。

その主旨を小榑さんから伺い、まさに言葉(口)の匕首(あいくち)を、この2人は魂に突き付けられている、と思った。

「心にしみました」と続いた。
小榑さんがうらやましかった。私も「叱られたかった」
小榑さんは、叱られたことを懐かしむだけでなく、誇りにしている。
「方丈」が完成したら、小榑さんにも来てほしい。
 

国民を鼓舞する戦争遂行の評語も生み出していた