もみ消し策略劇

 

 「案の定」と思った。南スーダン問題は、5月に撤収、でもみ消されそうだ。「戦闘」と言う文字を連続使用した自衛官の処遇と、今後の意図が気になるところだ。

 「森友学園問題」では、認可申請を取り下げて、辞任させ、国有地を買い戻し、もみ消されるに違いない。野党などが、それ以上攻め込もうとすると、もう済んだ(旧に復した)問題で「無駄な時間を、国会で空費するのはよしましょう」とか、「国民の生活を守るのが第一です」「大事な審議を、送らせてはいけません」などと叫ばれそうだ。国民の間でも「夫人も、首相も、載せられたンだ」との空気が蔓延しはじめるに違いない。ここらあたりは、韓国の国民に学ばなければいけない。

 そもそも、年端も行かない子供に「教育勅語」を唱和させる学校に、国の指導的立場にある人が関わったことだけで、大問題だ。それに与した夫人の行動に、外務、経済産業両省の職員が、計5人、うち2人は常駐、がサポートしながら、交通費は自弁などの論法で、急場しのぎをすること自体が大問題だ。

 親を大事にしたり、家庭を大事にしたりすることは、大切だと思う。それらは、「うるわしき国民の暮らし」を護るうえでの根本である、と思うからだ。

 だが、「教育勅語」は、この根本を、実におぞましき違う意味で用いている。国家は、「うるわしき国民の暮らし」を護ることが求められている。だが逆に、国民をないがしろにすることを是認させるために用いている。国民よ、親を大事にしたり、家庭を大事にしたりすることで、産めよ増やせよ、丈夫に子を育て、と諭しているわけだ。一銭五厘で国家のために犠牲となる兵士をたくさん招集し、突撃させることが必要であった時代の教えだ。

 もちろん、国家があっての国民だと思うが、それは国家が「うるわしき国民の暮らし」を護ることを第1義にしていることが前提だ。花森安治は、戦時中にあってもそう考え、その考えのもとに大政翼賛会に勤め、全知全能を傾けたようだ。つまり、花森安治ともあろう人も、「教育勅語」に騙されていたことになりそうだ。今や民主主義である。国民のための国家であって、羊飼いが羊を大事にするような気分で「国民は大事」と叫ぶような国家であってはほしくはない。

 ここらあたりの根本が問われる前に、また「森友学園問題」や「駆けつけ警護問題」にもみ消し策が講じられるに違いない。

 私は拉致問題で、首相が官房長官時代に下した判断を思い返している。5人を「返す約束」で連れ戻したが、官房長官は詭弁を弄して、また「返すべきだ」と主張する官僚を立場を活かして抑え込み、返させず、日本に残させた。両国間の関係を悪化させ、今の危機意識を醸造する手段として活かしたのだろう。半歩譲って言えば、咄嗟の判断であったとしても、それがそうした効果に結び付く発想をさせるオツムになっている、と断言してよいだろう。

 あの時、北は拉致を認めた。世界は、そのうちの5人を動かぬ証拠として確認した。約束通りに返しておればどうなっていたか。国際世論はどう動いたか。今日のような緊張感は作り出せていなかったであろう。ひょっとしたら北を、今のごときかたくなな国にせずに済んでいたかもしれない。

 それで不都合な人は誰か。今、異なる形で同じ手が、打たれつつある。