元の木阿弥になる

 

 過去「数年の努力」が水泡に帰すところだった。このたび畑で生えた野草は、若芽の間に抜けば、ほんの1日仕事で抜き終えるぐらいの本数だった、はずだ。そうなることを願い、何年か前から除草に努め、畑の土の中で眠っている野草の種の数を(芽を出せば、次々と抜き去り)減らしてきた。そのかいあって、年を追うごとに、芽生える数が減り、ほくそ笑んでいた。

 ところがこのたび、本数はそれほど多くはない野草を、ムクムクと大きく育ててしまい、元の草だらけの畑に戻しかねなくしていた。

 妻はこうなりかねないことを先刻承知で、除草の努力は無駄、との考え方を持っていた。野草だらけの畑が美しいとは見ていなかったが、除草剤を用いない農業の限界を、そこに見ていた。

 きっと妻は、私が観念し、元の野草だらけの畑に戻すに違いない、と見ていたようだ。だが、私は除草にとりかかった。そして、見る見るうちに野草を減らした。

 この過程で、驚くべき現象をホトケノザに見出している。昨年の今ごろのことだ。妻は「ホトケノザが(極端に)減った」と嘆いた。私も同感し、ホトケノザだけは抜くのを幾分か控え、数株を残した。それがこの度、仇となった。驚くほど多くのホトケノザが畑のあちらこちらではびこってしまった。おそらく、ホトケノザだけに関していえば、元の木阿弥にしていたようだ。

 妻は、私の勢いを「やり遂げそう」と見て取ったようで、「それって、今の孝之さん、地で行ってるのと違いますか」となった。