願いたき通夜

 

 この日は野中さんの死を悼み、到底皆さん、読本を開く気にはなれなかった様子。後藤さんが、孫を自慢し合ったことを話題にしたのがキッカケだった。次々と、最後に交わした言葉や話題。「あの時に」と昔話も飛び出した。振り返ればアイトワ塾での付き合いが始まって以来30年近い。野中さんは30歳代始めだし、私はまだ50歳頃の出会いであった。

 アイトワ塾の皆さんは、それぞれ生業のありようを大きく変えながら30年間を過ごしてきた。その間のバブルに振り回された人はないようだし、その後の不毛の四半世紀も、それぞれなりの工夫で乗り越えて来た。その中にあって、野中さんはアイトワ塾生のエースのごとき存在であった。

 「京都の、呉服業界にとっても大きな損失」と語る人があれば、誰しもが首を縦に深く振り、頷いた。縮小に縮小を重ねてきた和装市場にあって、質量ともに野中さんは気をはいていただけではない。新機軸も打ち出し、構造改革もなしとげ、和装業界全体に夢を感じさせていた。道半ばを惜しむ声が続いた。

 つくづく「良いお通夜だ」と私は思い、そう述べた。そして、「野中さんは、そこらあたりで見てくれているヨ」と言葉を足し、3つの臨死体験事例を引き合いに出した。

 この日の塾では、初の異例の出来事が生じていた。妻の参加だ。欠席は入院中の網田さんだけでなく、急の欠席者も出ていた。だから夕食が1人分余ったようで「小夜子さんも」と、誘われたのだろう。なぜ誘う気になってもらえたのかは不明だが、誘われて載った妻の心境も聴いていない。異例だった。1人分夕食が余ることはよくあったが、これまで30年間近くでは、こんなことは一度もなかった。

 臨死体験について、まず、父の例を取り上げた。血圧は30に下がり、かかりつけの医者が「延命効果は望めない」と見て取った。私は、夜通しの付き添いを買って出た。父は植物人間のごとき状態になっていたにも関わらず、聴覚は生きており、ほんの軽くだが、首を振ることができた。だから、最後の死水を私がとれた。翌朝、かかりつけの医者に再訪してもらえ、父の聴覚が生きていることを、この治医と母や妻だけでなく、多くの眼で確認した。ほんの軽くだが、首を振って反応したからだ。その後も昏睡受状態から戻れず、こと切れたが、その間10時間余りに生じた現象を語った。

 次いで、母が体験した事例だった。誰しもが死んだものと覚悟していた人が、生き返った話だ。「棺桶に収められておられたのでしょう」と妻が補足した。何かの気配に気づいた人があったようだ。少し深い眠りに誘われていただけ、と言ったようなことになった。

 三途の川の向こうから、そこは明るい花園だが、そこから大勢の人が手招きをして呼びかけ、招かれたが、振り切って返って来た、と語ったという。

 3つ目は親友の体験だった。死んだものとして連絡が廻され、次々と弔問客が続いた。遺体となった友人は、座敷に敷かれた床の中にあったが、友人はそこで繰り広げられる様子を眺めていた、と言う。座敷の角の天井に後頭部を擦り付けるようにしてしゃがんでおり、股を広げてかもい(鴨居)にとまり、眼科の死んだ自分の姿と弔問客を眺めていた、という。

 その後、生きていることが認められ、生還したが、その間の記憶をたどる機会に恵まれた。次々と駆けつけた人たちの服装や立ち居振る舞いまでが、ことごとく「その通り」と追認してもらえた。

 私は「こんな話は滅多にしませんが」と、つなぎ、「野中さんが、そこらで聴いてくれているのではないか」と思い、持ち出した、と語った。なぜか私は、このような通夜なら私もしてもらいたいものだ、と思った。実は、わが家では元気な間に、してほしいことや出来ることに気が付けば話し合うことにしている、と言って結んだ。