当週は、夏野菜用の畝を準備するために、冬野菜の畝に次々と手を付けた。その1つの整理を終え、野菜を台所にもちこんだ時に、妻は「ここまでしていただかなくてもよい、と思います」とつぶやいた。そして、丁寧に掃除まで済ませた小さな野菜を点検しながら、「こうして、間違いも生じますから」とつなぎ、小さなケシの芽を見つけ出した。
私は野菜が大好きで、バリバリ食したいものだから、小さな野菜と云えども大事にしたい。畑で収穫せずに残してしまい、堆肥の山に積む野菜は沢山あるが、それはそれほど気にならないから不思議だ。「次の野菜を太らせる」肥料になる、と考えてしまい、気にならないのだろう。
だが、人間のための収穫で、抜き去った野菜となると、何故か意識が違ってくる。命を奪う以上は、小さな野菜と云えども、と思い出し、つい整理に熱がこもってしまう。それが、気持ちが良い時間になるのだからケッタイナ話だ、と我ながら思う。だから仕方がない。
笑う人は笑うだろう。それは勝手だ。もちろん私も笑って済ませられたら楽だろうな、と思うことがある。だが、この収穫した分よりはるかに立派な野菜を堆肥の山に積むことがあるが、その時には感じられない気分だ。だから、とてつもなく面倒な作業だが、1本残らずきれいに掃除をして、調理場まで持ち込む前に萎れないように濡れたタオルを被せておく。
こうした時間が、妻には無駄な時間に見えるのだろうと思ったことがあったが、そうでもないらしい。妻も結構、無駄な時間の使い方をしている。「そこまでしなくてよい」と言うことをしている。
当週は、歯科医を訪れた。そこでも、「朽ちかけている奥歯の1本」を話題にして、愉快な気分になった。前々回、治療しても「完治できない歯」であり、朽ちるに任せたほうが賢明、と見た歯科医に相手にされなかった1本の歯のことだ。前回、医院長に頼んで延命処置をしてもらった。
「おかげで2週間、楽しい食事ができました」と、切り出した。院長は、即座に、
「具合が悪くなったら、また言ってください。セメントを詰め直すだけですが」との回答だった。
歯は、自然治癒がない部品であるだけに、歯科医としては「旧に、これで復させた」という治療でないと胸を張って取り組めないのだろう。復旧不能の歯をいたずらにはいじくることは躊躇しかねないに違いない。時間などの無駄、と思えるのかもしれない。
でも私は活かしたい。活かして、たとえ短期間であれ、役立たせたい。
笑われそうな問題だが、この奥に控える何か、がありそうで、気になってならない。
私は今、原爆投下後の広島で生じた一場面の証言を思い出している。陸軍のトラックが被災者の救済にやって来た、という。ただし、トラックに積み込んだのは、まだ若い男だけだった。その証言者は「戦争に使えそうな」という言葉を添え、女や子供、老人は「放ったらかし」だった、と証言した。
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