ある1頁

 

 何気なくTVをつけると、激怒する今村復興相の姿が飛び込んできた。「ナンジャ、これ」「正気の沙汰か」と思った。自主避難者を、まるで「敵前逃亡者」のような扱いではないか。なぜか「このままでは日本はまた、グチャグチャにされてしまいかねない」と心配になった。

 「森友問題」では、その根本問題は教育勅語の是非だが、その問題に首相と防衛相が主に関わっている。その首相が次いでTV画面に登場し、復興相の肩を持ち、クビを切らない魂胆であることを画面にさらした。「世も末ジャ」、と嘆いたが、やがて頭の中で何かがグルグルと巡り始めた。グルグルと何かを頭の中で巡らせながら、その日の朝刊をめくり始めた。

 20年ほど前から、私は新聞が来たときにすぐには読まず、日を置いて読むことが多くなっている。それが、読み飛ばしたり見過ごしたりしてよい記事に気付きやすくするからだ。もちろん新聞を読み始めた当時は、高度経済成長時代初期だったが、1面からすぐに読み始めていた。

 だが、ほどなく社会面から読むようになった。それは社会風潮が、上意下達型から下意上達型に替わるに違いないと見て取ったからだ。TV時代になるに従って、日を置いて新聞を読むことが増えてゆき、近ごろは、すぐにはめったに読まない。

 その頭が、グルグルと迷走していたわけだが、まず『赤ひげ』を思い出した。「赤ひげ」が首相なら、今村復興相を即刻クビにしていたであろう、と思ったわけだ。と同時に「馬鹿だナァ、私は」と反省した。「赤ひげ」が首相なら、こんなヒトを復興相に選ぶはずがない、と気付いたわけだ。「それにしても」と考えた。

 NHKへの感謝だ。先日、事情は知らないが、2本の古い映画を取り上げて放映した。それが『七人の侍』と『赤ひげ』であったからだ。この2本は、このところの、少なくとも私の、ココロの飢えを癒してくれそうに感じられた。他にも放映していたのかも知れないが、この2本に私は気付き、録画した。そして、『赤ひげ』から先に観た。

 この2本には共通する何かがある、と私は思う。うまく言葉にはできないが、何かがある。この2本の放映を「今」に決めた人は・人たちは、その何かを意識してのことではないか、と勝手に解釈し、NHKに感謝した。だからだろうか。翌早朝のことだが、アメリカ人の親友に、あるお礼の返信に、次のようなイクスキューズ(コトワリ)を追伸することになる。

ありがとうございました。
これも追加して、提案します。

ところで、人はさまざまで、泣かされます。
船旅で、例えて言えば、次のようになります。
「皆で乗っている船の安全」を常に考えてしまう人がいます。
か、と思うと、「乗っている船」の中で、常に楽なところを探す人がいます。

先の人は、後の人が増えたら辛くなり、泣きたくなります。
いつ下船すべきか考えたくなってしまうでしょう。
でも、その船が「宇宙船地球号」ならどうするか。
どうすべきか、と泣きたくなるでしょう。


 話を前夜・木曜日の夜にもどす。当日の朝日新聞朝刊をめくっていた。そして、あるページに至り、嬉しくなった。朝日新聞にひときわ感謝した。朝日を選んでいてよかった、と思った。

 朝日新聞と言えば、かつて従軍慰安婦問題で現首相に逆恨みされ、潰されかけた新聞だ。その時に、政府は読売と産経にあるリークまでして、両者を朝日つぶしに巻き込んでいた。

 本来なら逆だ。日本から韓国に、歴史教科書の共通化を提案し、双方が得心できることを子どもに教え、子どもたちに胸を張って、公正なことを教えている、と断言すべきだ。逆に、日本はその提案を韓国からされていながら蹴っている。それでは子どもたちに不要な摩擦を起こさせようとしているようなものではないか。

 私が感謝した1頁は、中央に一口漫画があった。登場するお3方は、生きとし生けるものが乗り合わせた船よりも、船の上での良いところ取りにご執心だ。

 社説では、復興相の暴言を嘆いたり、政治の堕落や日本の腐敗に警鐘を鳴らしたりしていた。

 声欄に目を移すと、老若男女の切実な声が紹介されていた。

 朝日川柳に目を転じ、膝を打った。「内閣の気質復興層に透け」「この国は最後はいつも自己責任」

 ついで「自己責任そういう国は無責任」とつづいた。

 ザ・コラムでは、重苦しい社会に押しつぶされかねない若人に、目を向けていた。

 これからの日本はどうなるのか。このままで大丈夫なはずはない、と思いつつ新聞を伏せた。

 そして翌日、また夕刻に読んだ朝刊でのことだが、首相が「共謀罪」の審議で、“「テロ」全面 言及70回”の見出しが躍っていた。すぐにこれは、悪しき政治にありがちな、自作自演のプロパガンダ、もしくはレッテル張りだ、と思った。国民に、不安感をつのらせ、「安全」という餌で、金縛りにする常套手段だ。戦時中にやり方だ。

 そして、過去の新聞を開き、目を通し直した。3月22日のオピニオンでは、内田博文神戸学院大教授が、過去を振りかえってもいた。治安維持法では反戦思想を問わないことにしていたが、「団体を否定することが口実にされ」弾圧の術に供せられた。「共謀罪」も拡大解釈が心配、とのご意見。

 4月1日の新聞では、 “「共謀罪」報道 割れる表記” との赤裸々な見出しに驚かされた。政府は「共謀罪」の匂いを減じようと「テロ等準備罪」とごまかし始めたが、その後のメディアの扱いを採りあげていた。アサヒはこれまで通りに「共謀罪」で通しており、読売と産経は「等」を外して「テロ準備罪」と報道している。改めて、メディアの役割を考え直させられた。

 「朝日」を選んでおいてヨカッタ、と思った。ちなみに、毎日は「共謀罪」を、NHKは「テロ等準備罪」を使っている。問題は、政府の意図と、権力に立ち向かうばきジャーナリズム本来の姿勢、この2つのからみの問題だと思う。
 


中央に一口漫画

復興相の暴言を嘆いたり

老若男女の切実な声