未生君に2つのテーマ

 

 日曜日はうっかり、実生君にお手伝いしてもらうテーマを用意していなかった。だからパーキングで自転車を乗り回すなど、独自の動きに飛び込ませてしまった。母の側がまだ大好きな慧桃君を母から切り離しがちになった。私はH痛く反省した。

 お茶の時間に、実生君は「今日は、ケーキは?」と2度つぶやいた。だが、私は相手にせず、むしろ逆に、今日は出したくない気分であることを匂わせた。そして、幸いにも、再訪してもらう機会を近く設けられることを悦んだ。

 水曜日は、実生君のお手伝いのテーマとして、2つを用意した。畑の畝の肩に伏せたコ―ヒーのフィルター拾いと、スモモの剪定をしたまま、その側に剪定クズを置いたままにしていたが、それを囲炉裏場まで運ぶ作業だ。

 咲子さんには、私が庭仕事を好むようになった理由の1つ、を紹介した。それは、昭和19年の暮れの話。6歳になって3か月目の私が麦踏に勤しんだ話だ。幼児は、母親が躍起になって取り組む作業や、言動に「真の遊び」を見出すのではないか、と私は思っている。

 16歳になっていた姉は逆に、2年後にクリスチャンになり、心に天使のような一面を備えたが、農業は「強制させられた」と見たようで、その後は郷帰りをしても一瞥すら庭に向けたことがない。

 慧桃君は、兄がスモモの剪定クズを運び出すや否や、真似て、嬉々と、スモモの剪定クズを運びはじめ、大声で「お兄ちゃんはどうして落としたのを拾わないのかなあ」と嬉々と拾って廻りもした。

 良い午後のお茶の時間になった。

 それは、咲子さんに手土産として持参してもらえたダイコン(の漬物)に大いに負うところがあった。なぜなら、その元のダイコンに、私は尋常ならぬ思い入れがあったからだ。

 先週末のことだ。短い一畝を耕すために抜き去ったものだが、時季外れにまいた種ゆえに、すべてがウラナリのごとき出来栄えだった。だが、そのすべてを私は台所に持ち込んだ

 短大に努める以前なら、ある程度の選抜をしてはずだが、あるいは短大に努めていなかったら、今も選抜をしていたに違いないが、すべてを台所に持ち込んだ。それを丁寧に並べて写真に収めた。なぜかそのすべてが自慢の成果であるかのように思われたからだ。

 短大時代の10年で、私はまた変ったように思う。1000人近くの若い女性と各2年を通して触れ合い、変った。すべての女性に固有の魅力とその真価を見出せるよう(な気持ち)になれたからだ。と同時に、元をただせば、ダイコンとヒトどころか、あらゆる生きものが、たった一つのバクテリアから始まっていたことを知ったことも関係している。庭仕事を通してそれを体感できたのもよかった。

 それはともかく、妻だけでなく、咲子さんにも、ウウラナリを活かしてもらえた。



 


そのすべてを私は台所に持ち込んだ