教師冥利

 

 外出が「近郊でヨカッタ」と、思った。帰途の中ほどで、妻がケイタイに「教え子の、勝山あゆみさんがお見えです」と知らせて来た。すぐには顔を思い出せない学生だった。「急がなくて、いいですよ。展示室で今、人形を見ていただいていますから」と、注意された。帰途は、緩やかだが登り路がつづく。注意されたとはいえ、心持ち急ぎ足になった。

 「彼女だ」と、目を見てすぐにわかった。いつも睨みつけるようにして受講していた人だ。それは、人形工房にたどり着き、妻に出迎えられ、「まだ展示室です」と教えられて待ち、ほどなく上階から降りて来た女と出会った時のことだ。いつもの見据えるようなまなざしだった。嬉しかった。

 なんと話しかけたのか。どのような声を掛け合ったのか、覚えていない。そばのテーブルに誘い、3人で掛けた。後から降りて来た長身の男性は、父親だろう、と思った。

 彼女はこの手紙と拙著を手にしていたように思う。『この本をいつも』と、話しかけ、テキストに用いた本を手渡された。随分読み込まれていた。テキストを買い求めてくれた人には「何かあれば、何時でも訪ねてほしい」との思いを込めた一文を書き添えたが、そのようなことを書き込んでいた。

 「教師冥利だ」と思った。学生の中には「テキストを買わせておきながら」と、講義で用いないことに不満の声を上げる人がいた。私は、逆の想いだった。なるだけ多くのことを発信し、2年間で4年分の何かを届けたかった。「本は、自分一人で読めばわかるだろう」次週の時間に活かせ、と言いたかった。なにせ、短大に勤めてすぐに分かったことがある。短大の就学期間は、4年制の半分ではない、ということだ。1泊2日の旅行と3泊4日の違いのようなものだ。気ぜわしい。

 私は、その気ぜわしさを活かすべし、と考えていた。クラブ活動をしても、先輩から後輩への伝承などおよそ期待できない。その新鮮さ、気ぜわしさ、を強みにしたい、と思ったものだ。

 再訪することを期待し、見送った。さまざまなことが頭を巡り始めた。

 


そばのテーブルに誘い、3人で掛けた