ためしてガッテンに得心

 

 心臓病がテーマだった。短絡に言えば、大事にし過ぎずではなく、「適度な負荷」を掛けよ、だった。私は、「健全な負荷」と解釈し直し、得心した。

 拡張性心筋症でダウンした後、今も通院が続くが、この間に担当医と言い争い、病院を替えている。担当医が悪い、と言うより、病院長が悪い、と思った。もちろん、要望の声を届けたが、それを汲み取るシステムがなっていなようだ、と見たからだ。病気のカラダには目を向けているが、病人のココロには充分なる目を注いでいない、と見た。

 細く長く生きよとするか。太く長く生きようとするか。この選択を迫られた。だから、医者の力に期待した。もとより、太く短く生きる選択肢などない。それなら、医者など不要だ。

 目標を見定めた人生にとっては、病気持ちになれば、どうしても医者の力に頼りたくなる。つまり平均寿命までピンピンコロリで自活しながら、目標を達成したい。問題は目標だ。それは人それぞれだろうが、健全な人に健全だと評価してもらえる目標でありたい。

 当週は、浅田真央の引退騒ぎがあっただけに、「健全」の定義が気になった。できれば、ヒトサマには迷惑をかけず、「この人生なら、生まれ治せるものなら、もう一度やり直したい」と願う人生が私流の「健全」だ。無理を強いる競争の人生は辛い。

 「さあ困った」。私流の健全であろうとすると、どうしてもカラダには相当の負荷を掛けざるを得なくなる。その「許される限界」はいかほどか。無理をして、カラダを悪くして、治療を求めるでは、ココロの不健康であろうし、お話にならない。次第にカラダを丈夫にする負荷であり、それが未病の秘訣に結び付ける限界を知りたい。その限界も人それぞれだろうが、ココロの健康の範囲であってほしい。このあたりを、一緒になった考える医者があって当然ではないか。

 こんなことをクドクド考えながら日々を過ごしてきたが、この2年、ニトロの世話にならずに済んでいる。そのような状況の下で「ためしてガッテン」を観た。