この「遊び」の意義
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2人の嬉々とした動きを睨みながら、ふと野生動物の子どもの遊びを思い浮かべた。野生動物の子どもは(食と睡眠や休息の他は)終始ハシャギ回っている。その多くは(狩りの練習であるとか、逃走の鍛錬であるなど)健やかに生きるための知恵や身体能力などを総合的に体得する機会になっている。それは(親や大人が導いたり、誘ったりしたものではなく)子ども自身が勝手に始め、取り組む、完全なる自由と本能のなせる業だろう。 2人の場合は、この次元を超えた「人間の尊厳の芽生え」であったに違いない(と言えば大げさだろうか)。竹の枝でこしらえた巣ごもり住処を解体しながら、そうと私は感心させられた。被せてあった竹の枝を取り除くと、2本の灌木を柱に見立てていたことが分かった、竹の枝が動機になったのか。2本の灌木に誘われたのか。あるいは、とさまざまに考えた。間違いなく、この行為ば本能をくすぐる何かがあったはずだ。それが、人間ゆえに、次元を超えさせたのだと思う。 それはともかく、本能が誘ったとしても、2人がハシャイデいたときの光景を思い出し、それ以上の何かあったに違いない、と思うに至った。本能がなせるワザ以上の何かが、完全なる自由と本能がなせるワザ以上の何かがあったに違いない。その目の輝き。夢中以上の集中力。2人の嬉々とした協力関係。そこには何かがあったに違いない。それは何か。 花連がここにいたら、どう振る舞っていただろうか、とも考えた。まだ花連なら、嬉々として参加していたことだろう。3人で入れる大きさにしてほしくなり、せっせと竹の枝を運び込んでいたかもしれない。あるいは、年上故に、参加するだけでなく、むしろリーダーになっていたかもしれない。「見たかった」と思った。 こうした機会に恵まれず、ゲーム遊びとか、ボール遊びなど、大人の誘導に興じるばかりの生き方になればどうなるか。遊んでいるつもりで、遊ばれる人にされてしまうのではないか。 そこで気付いたのが漢字の「遊」の由縁だった。「遊」とは、ある種の活動だが、完全なる自由と創造が誘う活動、と言ったような意味だと白川静(確か)の書籍にあった。 その目て見れば、前回は(荷台を外した)一輪車をオモチャにした未生君だったが、この日は食事時にテーブルに活かしたことに気付かされた。 手前みそだが、この2人はアイトワの空間を、最もありがたい活かし方に供してくれたように思う。 |
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2本の灌木を柱に見立てていたことが分かった |
一輪車をオモチャにした未生君 |
食事時にテーブルに活かしたことに気付かされた |
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