日本のありようを嘆く
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昨今、メディア各紙が共謀罪法案に対する世論調査を行っており、その結果に触れた。「共謀罪」と、その本質を明らかにして問いかけたか、「テロ防止」のために必要と思い込ませたかのような問いかけによってか、などで差異はあったが、大同小異だ。 いまや世論は、心の自由より身の安全の方が先決、のようだ。そこまで不安をあおられているのだろう。悪しき意識がにじみ出た様な結果であり、ガッカリだった。 もう1つ、ガッカリした報道もあった。関東大震災の折に、大勢の朝鮮人が虐殺されたが、その事実を内閣府がHPから削除した、と報じられたことだ。これが事実なら、とても危険だ。国民を情緒不安定にしかねない。常日頃から歴史的事実の認識を世界と共有し、「人間とは何か」を考えるクセを身に着けておく必要があるのに、逆行だ。「知らぬはテイシュばかりなり」ではないが、偽りの人生を強いるようなやり方は危険だ。とても危うげな国に追い込みかねない。 人間はいかなる学習をしておくべきか。そして覚悟もし、自己制御能力を養っておくべきか。こうしたことが、真の平和を確保し、維持する上で不可欠ではないか。なのに、逆行ではないか。 おそらくドイツは、その重要性に気づき、第2次世界大戦での加害をことさら強調し、自ら犯した負の遺産をありのままに公開してきたのだろう。だから欧州の「優と勇」としての信任を得たのではないか。それと逆行する吾が政府にガッカリだ。日本を近隣国から孤立化させている。 この2つにガッカリして、やがてアホラシクなり、身の丈に合った「遊」の時空を満喫する日々を追いがちになった。そうこうしているうちに、「キチガイにハモノ」であるかのごときニュースが次々と飛び込んできた。 アメリカと北朝鮮のせめぎ合いだ。余りにも浅はかで、見え透いた人心の煽り方だ。ブッシュよりトランプは質が悪い、と私は思う。 まるで身持ちが悪くて「愛想がつきた」と宣告されたテイシュのごとき悪あがきだ。愛想を突かされたテイシュであれ、押し込み強盗が入ったり、野盗に襲われたりすればアテにされるらしい。そのマッチポンプ・自作自演劇のごとき振る舞いだ。身持ちが悪いテイシュに限って、奇妙な自信を持っている。手練手管でたらしこむ好機さえつくればよりは戻せる、とタカをくくっている。 内にあっては、復興相の暴言だ。首相は、このたびはいち早く反応した。幹事長は暴言や失言続きで参ったのか、「下手な比喩は用いるな」など、議員に注意を促す始末だ。過日の防衛相の極めて危険で、国民をバカにした言葉遊びのごとき暴言の折は、首相はあれほど強引にかばったのに、今度逆だ。いち早く反応し、復興層を切った。それはどうしてか、と考えた。 復興相の暴言は許せない、と私も思う。だが、もっと許せないことがそのカゲにはありそうだ、と疑ったわけだ。おかげで次第につじつまが合うようになった。復興相の暴言は、首相の心の内を暴いた様な発言であったのではないか、と思われ始めた。 だから首相は、反射的に、と言ってよいほど、いち早く復興相の暴言を非難したのだろう。そして、東北の復興の重要性を強調し、その全面的なる支援を口頭で約束してみせたのだろう。その歯切れの良さは、かつてこれに似た歯切れのよい口頭約束を思い出させた。それは、「この内閣はこの解消のためにこそある」と言わんばかりの口頭約束をした案件だ。拉致問題の解消だった。 心の内を暴かれた首相は慌て、復興層を切った。それが証拠に、首相は拉致問題にも口とは裏腹に冷淡だ。同様に、東北にも冷淡だ。実に、クヤシイ。そのやり方に降り回わされている日本がオシイ。 首相は大事なチャンスを無にした。日本中が身と心を一つにして東北の復興に取り組まなくてはならないときに、首相は逆に、その足を引っ張るオリンピックを誘導した。あらん限りの資源と人力を投入し、東北の復興に取り組まなくてはならないとき、ブロックとかコントロ ールなど真っ赤なウソまでついてオリンピックを誘導した。 それは大量の人力と資源をそちらに回し、東北の復興を手薄にしている。また、その復興への取り組みも、住民生活の復元に眼目においておらず、汚染土のその場での置き替えや、数百年後(次の同様の天災が襲いかねない時)にはトックニ寿命が来ていそうな巨大防潮堤の建設に偏っている。 本来は、地震国日本への備えを固めておく機会だった。数十年以内には100%近くとか、東南海地震は明日にでもなど、不気味な予測がされているわが国だ。明日は我が身と考えて、東北の復興をモデルにして、明日への備え方を模索し、確立しておくべきであった。 幸いにも、まだ東京や大阪など、人口が多いだけでなく、多くの企業本社所在地は巨大天災から免れている。全国から利益をかき集め、財を溜めやすい大都会が健在だ。その集積された財を投入し、明日は我が身と考えて、大都市が主になって、東北の復興に全力を集中すべき時であった。つまり東北の復興をモデルにして、国を挙げて被災地を復興しあうシステムを確立する機会として活かすべき時であった。にもかかわらず、東京オリンピックをウソまでついて誘致した。 オリンピックは事情を言って次回にさせてもらい、東北の復興を優先していたらどうなっていたか。自衛隊員のほぼすべてを投入し、その予算の多くも(オスプレイなどではなく)復興関係に回していたらどうなっていたか。地震国日本のことだ。世界に冠たる災害救援や復興ノウハウを蓄積した救援隊を編成で来ていたに違いない。 そして、世界中で生じた地震や津波などの天災の復興のために駆けつけ、救援隊に邁進するようになっておればどうなっていたか。もちろん、北朝鮮が天災に見舞われれば、当然近隣国として一番に駆けつけるべきだ。ならば、北朝鮮のありようも大きく異なっていたに違いない。かくあるべし、と日本は説得すべきだし、その資格もある。それがための憲法九条ではないか。憲法9条を堅持し、健全に強調すべき国だ。そうした姿勢を貫いておれば、今ごろは、拉致問題も解消していたに違いない。 もちろんなにごとお、勇気や度胸などが必要だろう。田中角栄が生きており、健在であったなら、こうした手を打っていたに違いない(と、思うようになった)。だが田中はアメリカに葬られた(『田中角栄を葬ったのは誰だ』 平野貞夫 ケイアンドケイプレス)。田中は中国と和解し、ソ連とも、と考えた。それがためにアメリカは気に入らず、葬った。問題は、私たち日本人が、さらなる巨悪を野放しにしたことだ。アメリカの凄いところ、あるいは善良さは、こうした事実も時が来れば公開するところである。 鳩山も「少なくとも県外」と言ったがために、アメリカに葬られた(『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治、集英社)。この事実も日本人は理解できていなかった。こうした事実を知ってアメリカにおののき、くみするのではなく、アメリカの凄いところ、その善良さを信じて度胸を決め、勇気を奮うべき時ではないか。歴史はそれが、日本だけでなく、アメリカをも愛していたことを証明することになるだろう。 最早だれしもが、戦争で得られるモノより、失うモノの方が多いことを知っている。ごく一部の、目先の利益を追う者はあろうが、戦争をなくせば、それをおぎなってもあまりあるものを期待できる。その調整も政府の知恵と力の出しどころだ。 かつて誰かが語った。「奪い合えば足らぬ。分かち合えば余る」と。それを地で行く時だ。その口火を切るのが日本の役割ではないか。そのための憲法9条ではないか。 |
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