昭和天皇の想いと憲法

 

 70回目の憲法記念日を迎えたこの1週間、現憲法(国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義が3本柱)が与えられたり、押し付けられたりしたものではないことを明らかにする番組、2つのNHKの番組に恵まれた。

 まず週初(30日)のNHKスペシャル「憲法70年、平和国家はこうして生まれた」。NHKは、多くの解禁された資料や取材を通して、新憲法が与えられたり、押し付けられたりした憲法ではない、と胸を張ってもよさそうだ、と思わせる事実を紹介した、と私は見た。

 まず新憲法は、昭和天皇の「平和国家建設」の願いを根本として草案がつくられた、と胸を張ってもよさそうだ。そのGHQ原案を、14人の国会議員が検証し、多くの条文を追加したり、9条に魂を吹き込んだりすることによって完成させていた。

 敗戦後初の国会(昭和20年9月4日)は昭和天皇が招集し、「平和国家を確立して人類の文化に寄与せんことをこいねがう」と標榜する勅語を読み上げることで始まっている。

 この勅語は、第4次案をもって完成したことも紹介された。第1次案では「平和国家」の文言はなく、代わって当時の政府の課題であった「国体の護持」が盛り込まれていた。だが、第3次案では、戦後初の首相・東久邇宮稔彦によって「平和的新日本の建設」が加えられる。そして第4次案に至って、平和国家を標榜し、完成させている。

 その後、天皇はマッカーサーを訪ねているが、そこで「平和国家を希求」している旨を伝えたことを紹介した。そして、その願いが、敗戦がそうさせたものではない、と言わんがばかりに、天皇が同様の願いを幼少時の書初めに込めていたことを示す資料をアメリカが保管していたことも紹介した。
 

幼少時の書初めに込めていた
 やがてマッカーサーから、新憲法のGHQ草案が提出される。だが、日本政府の面々は明治憲法が頭にこびりついており、良い顔をしない。そこでマッカーサーは、政府が受け入れなければ、これを日本国民に公開し、国民投票にかけようと啖呵を切ったかのごとくの提唱をし、日本政府は受け入れた。

 このGHQ草案を受けて、昭和21年7月25日に各政党の14人の議員が国会に集い、秘密の小委員会を編成し、GHQ草案の検証していたわけだ。議論を重ねた結果、第25条には「生存権」を、第26条の義務教育については「中学まで延長」などを追加しただけでなく、とりわけ9条には焦点が当てられ、議論を重ね、いかにして第9条に平和主義が盛り込まれたのかを明らかにした。

 GHQ草案には、戦争の放棄や戦力の不保持は規定していたが、平和の文言はなかった。だが、第9条にはその冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と言う文言が入っている(日本国憲法)。これは、社会党議員であった鈴木義男が、秘密の小委員会で、日本人自身の問題として戦争を2度と繰り返さない制度を作らないといけないと提案。さまざまな角度から14人で検討を加え、新憲法の魂であるこの「平和主義を希求する1文」が加えられたことを明らかにした。

正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」と言う文言が入っている
 
 

 わが国の新憲法は、決して与えられたり、押し付けられたりした憲法ではない、と胸を張ってもよさそうだ、と私は思うに至ったわけだ。

 2日(火曜日)のNHKは、アナザーストーリで、[誕生! 日本国憲法〜焼け後に秘められた3つのドラマ]を放映した。その第2話で紹介された内容を通して、私は、わが国の新憲法は、与えられたり、押し付けられたりした憲法では決してなく、独自に生み出したものだ、と胸を張ってもよい、と私は確信するに至った。

 天皇は日本国の象徴であることや、主権は日本国民にある、との発想はGHQがしたものではなく、7人のサムライとも呼ぶべき7人の日本国民が議論を重ね、生み出したものであることを明らかにした。

 7人のサムライは1945年11月に憲法研究会を発足させており、12月26日に全58条からなる憲法草案を完成させている。そして、日本政府とGHQ本部に届ける。日本政府は黙殺したようで、反応していない。一方GHQは大いなる反応を示した。この民間草案を基に幾つかの修正をすれば、大いに満足できる憲法を作ることができる、と見たことをGHQ民生局法規課長に証言させている。法規課長であったマイク・ラウエル中佐は「なんて良い案だろう」との印象を抱いたことが紹介された。

 7人のサムライは、唯一の憲法学者であった鈴木安蔵がまとめ役となり、経済学者の森戸辰男、元東大教授で社会運動家であった高野岩三郎、あるいは政治評論家の岩淵辰雄などが顔をそろえていた。最年長であった高野岩三郎は戦時中に言論弾圧を受けている。森戸辰男は危険思想の持ち主として大学を追われている。岩淵辰雄は戦争の早期終結を工作したとして逮捕されている。まとめ役の鈴木安蔵は、福島県相馬の出身だが、反政府運動で投獄されていた。

 こうした面々が生み出した草案が参考にされ、1946年2月12日に92条からなるGHQ草案が誕生する。

 3月6日に日本政府修正案がしめされるが、戦後初の総選挙で社会党議員となっていた森戸辰男は6月の帝国議会の審議で、ある1条を取り戻そうとして立ち上がっている。それが25条だ。人間が人間らしく生きる権利・生存権条項の復活であった
 


新憲法は公布され、日本国民は狂気歓迎した
 この間にあって、1945年10月にマッカーサーは日本政府に憲法を改正するように促しており、政府案がつくられたことも紹介している。だがそれは、明治憲法の焼き直しであり、代わり映えせず「極めて保守的」とみなされ、評価されていない。そこでマッカーサーは、GHQ草案を用意して提示する方が望ましき新憲法を生み出すうえでは戦略的、と判断したことも紹介している。GHQ民生局次長チャ―ルズ・ケーディス大佐がりーだーとなり、GHQ草案はつくられた。

 かくして11月3日、新憲法は公布され、日本国民は狂気歓迎した。子どもたちは青空教室で教育を受けたが、新しい生き方が語り掛けられている。

 第3話は、新憲法を生み出すにたる充分なる資質が日本国民にはあったことや、受け入れるに足る環境が整っていたことをだめ押しするかのごとき秘話であった。それは53日間に過ぎなかったが伊豆大島共和国が存在しており、幻の憲法案を生み出していたことを紹介した。

 大島はサイパンなきあと皇都を守る最後の砦として1万人の日本兵が駐屯していた。川がない、水がない大島は、第2の沖縄として捨て石にされかねない存在であったのだろうと私は推測した。後3カ月も戦争が続いていたら、餓死の島になっていたとの証言も紹介した。

 敗戦後、島民1万人そこそこの6町からなる伊豆大島は、GHQによって日本から切り離され、独立を命じられた。そこで、大島元村の村長である柳瀬善之助が「理想郷大島をつくろうではありませんか」と立ち上がった。大島共和国を作ろうとの動議である。茶屋の主人・高木久太郎や船大工の雨宮政治郎などがこれに尽力し、大島共和国政治機構案が作られる。高木久太郎は、自殺の名所であった三原山で茶屋を営み、自殺を押しとどめさせさせる日々を過ごしていた。憲法学者は居なかった。

 柳瀬善之助はガリ版刷り新聞「もとむら」を発行し、島中から投稿を求めた。かくして、2か月間の議論を経て、日本国新憲法に通じる島民主権、万邦和平(平和主義)を盛り込んだ「大島暫定憲法」が、日本の新憲法公布よりが8カ月前の3月下旬に誕生した、

 ところが数日後の3月22日、GHQがギュ性分離解除を発表し、53日間の独立国で終わっている。

 第1話は、その後の世界の先進民主国では常識となる男女同権の1条が新憲法に盛り込まれた秘話の紹介であった。その陰には、日米の2人の女性の貢献があったことを明らかにしている。

 GHQ草案が提示され、3月4日から日米間の会議が始まるが、その通訳を担った22歳の女性であるベアテ・シロタがその1人である。ベアテは両親とともに日本に亡命したユダヤ人であり、5歳の時から姉のごとくに慕った日本人・小柴美代がもう1人の女性である。

 マッカーサーは1946年2月4日に25人のGHQメンバーを招集し、チャ―ルズ・ケーディス大佐をリーダーに9日間でGHQ草案をつくらせているが、ベアテは唯一の女性としてそのメンバーに選ばれている。

 ベアテの父はリストの再来と言われたピアニストで、オールトリアから山田耕作に招かれ1923年に日本に移住。その後15歳でアメリカに留学。その直後に太平洋戦争が勃発し、両親と離れ離れになるが、日本語を始め6か国語に通じる通訳に育っていた。

 ベアテ21歳は敗戦後の日本に、両親を探し求めて12月24日に来日、小柴美代の世話になって栄養失調だが生きながらえていた両親に再会。その後、小柴美代はこの一家の家政婦となっている。

 ベアテは、7つ班に分けられたメンバーの1つ・人権委員会に配属された。同委員会は41の条項を用意しtが、その内の少なくとも9項がベアテの初案だと見なされている。

 いよいよ、持ち寄られた条項の審査が始まり、ベアテの案も1つ1つ削られてゆく。そのたびにベアテは「不幸なに反助成を増える」との心境にされ、泣いてしまう。そこで救いの手を意外にもケーディス大佐が差し伸べた。それは当時のアメリカ(世界で最初に憲法をこしらえた国の)憲法にもなかった両性の平等が23条として採用された。

 この両性の平等は、世界の先駆けであり、その後の民主主義国の常識となってゆく。

 「憲法70年、平和国家はこうして生まれた」と[誕生! 日本国憲法〜焼け後に秘められた3つのドラマ]を観終わり、録画で再見しながら、考えた。

 日本国憲法23条「両性の平等」は、ベアテの日本への贈物であり、押し付けられた条項と言って良いことになりそうだ。また、贈物には優劣を着けてはいけないのかもしれないが、なぜかこの度は考えさせられた。お金、モノ、技術、あるいは教育や思想などの考え方など、さまざまな贈物がある。
 

駆け出したくなるような心境にされた
 
 ベアテは日本に「両性の平等」という思想を贈った。だが、その贈物には、ベアテを育んだ小柴美代を始めとするココロ優しい日本人庶民の心情と大いにかかわりがあったことになりそうだ。あえて言えば、その庶民の心優しさや誠実さへの返礼の賜物ではなかったか。

 となると、大島の庶民がわずかな日時で生み出した「大島暫定憲法」ではないが、日本の庶民が心に秘め持つ心意気、庶民が生み出した島民主権(国民主権)や万邦和平(平和主義)の想いの賜物ではないだろうか。
 新憲法発布に触れ、日本の庶民はことごとく駆け出したくなるような心境にされたようだが、そして天皇皇后に対して大声で、あるいは涙して万歳を叫んだようだが、その謎も解けるか野ごとき心境にされた。庶民には、昭和天皇の「平和国家建設」の願いが届いていたに違いない。


 さらに掘り下げるならば、日本国憲法は7人のサムライがごとき人たちによって発想された。だが、この人たちは戦時中の国賊であり非国民であり、「治安維持法」によって取り締まられた人たちである。そこで、こうした人たちのが想いが
元となった新憲法・現憲法を私たちはいかに位置付けるべきか。

 与えられたり、押し付けられたりした憲法として片づけてよいのか。

 憲法を変えれば、今以上に良い国に出来るのか。

 現憲法が謳うような国家に、我々は日本を育て導いてきたのか。

 混沌とする世界情勢の中に合って、日本はいかなる憲法を掲げれば今以上に良い国に出来るのか。

 なぜ、押し付けられたり与えられたりした憲法との思いがつきまとうのか。

 日本はいかにあれば、世界の冠たる国になれるのか。
 

治安維持法