丸71年と97日前と、100日前に生じた
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私には、母と子の情に関わる幾つかの思い出がある。その内の2つを、なぜかこのたび思い起こした。そして、この2つの話も、これまで「わが子を思う母心」と理解していたが、そこに新たな要素を見出さなければならないようだ、と思うに至っている。 2つの話しは共に原爆がらみだ。その1つは、学生時代(19歳の折)に知りえた広島で生じた1つの凄惨な出来事だ。その後、社会人になり(8〜9年後に)広島にも立ち寄る出張機会に恵まれたが、その時に「原爆平和記念資料館」に立ち寄っており、そこで2つ目の話に触れている。それは、その会場に掲げられていた1つの詩で知り得た悲惨の話である。 |
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この詩は後年(短大時代に)、広島で生じた悲劇ではなく、広島から3日後の長崎で生じた悲しい出来事であったことを知るに至った。私が立ち寄った時期に、たまたま広島に貸し出されていたわけだ。 この詩の前で私は、学生時代の同窓生から知った広島での出来事を思い出し、母と子の情を知る思いがしたような心境にされたことを記憶している。 学生時代の同窓生で、後に東洋工業の役員になった友人がいる。その男の話を思い出したわけだ。その叔母さん(?)から聞いたという話であった。銀労働員に駆り出されていた叔母さんは幼子を母親に預けて銀労働員に出ていたが、特殊爆弾の投下を知り、工場から自宅まで駈け足で戻ることにした。 広島市内に近づくにつれて惨状は言語を絶するようになり、いつものように深い水路端の道にまで差し掛かった時には、一帯は目を覆うばかりの惨状を呈していた。 その時に、向こうから小走りのごとくだが、フラフラと近づいて来る何か黒い物体があった。近づくにつれて、それが何かを抱えている人だと分かった。やがて、それは焼きただれて黒くなった骸骨のごとき痩せた人であり、抱きかかえている物体は子どもだと分かった。ちょうどその時に、聞き覚えのある声からその物体が叔母だと分かった。 叔母から手渡された黒い物体は焼きただれた幼子であり、伯母を手渡すと同時にその場で「カタカタ」と音を立てて崩れ落ちたという。絶命していた。もちろん幼子も息はなく、わが子だとはとうてい判別できなかったという。 この2つの出来事を、私は母と子をつなげて考えていたが、この度の妻の行動に接して、必ずしもそれだけではない、と感じた。それを、人と生命の関り、と見てよいのかと思ったり、母性と生命と考え直したりしたが、今はわが胸に手を当てながら、後者だろうと考えて居る。 なぜなら、「どうしてそこまで」頑張ったのか、と不思議に思い、妻の意見をそれとなく聞き出そうとしたが、思い当たるフシは次の一言であったからだ。 「この子の命は、私があきらめたら」たちまちにして奪われてしまう、との「恐怖に駆られ」我を忘れていた、と語った。 |
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