朝ドラで「得心」

 

 ドラマは集団就職で都会に出て、寮生活を送る若き女性が主人公だ。おのずと私は高度経済成長期を振り返るようになった。「金の卵」と呼ばれた中学卒業生の集団就職の様子だけでなく、後年勤めた短大での思い出なども振り返ることになった。

 この短大は、高校卒業生が集団就職し、昼間2交代制で国家資格を求める勤労学生の学び舎として、つまり3部の短大として高度経済成長期に誕生していた。高度経済成長は、産業構造を変えた。弱電や自動車など精密機器の組み立て産業を流行らせ、紡績など繊維産業を斜陽化させた。つまり、勤めた短大は、斜陽化にあった紡績会社が、優秀な勤労者を確保するために設立した学校だった。とはいえ、3部だけでは優秀な教員を確保しにくい、ということで1部も併設されていた。

 ドラマを見ながら、「ヨカッタ」「おかげで、報われた」と私は思いながら、世話になった当時のことを、四半世紀近く前のことを振り返った。と同時に、恥じ入りたい思い出もよみがえった。なぜなら、今でこそ私は、3部学生に多大なる信頼を寄せる教員生活を送った、と思っているが、当初は必ずしもそうとは言い切れなない一面もあった、ということも思い出したからだ。

 だから余計に「ヨカッタ」「報われた」と思ったのだろう。

 この学校に勤め始めて分かったことは、理事など法人関係者だけでなく、多くの教員も「女工さんの学校」と呼ばれることを嫌い、卑下していた。だが私は(ある事情があって)逆の想いを描いていた。

 勤め始めたキッカケは、ある要請だった。紡績会社は早晩行き詰まり、3部生を求められなくなる。だからといって廃校でいいのか。普通の短大・1部の短大として生き残りたい。そのために力を貸してほしい、が要請だった。ある紡績の要人が推薦し、理事長が三顧の礼を踏んでくださった。バブルが最盛期の頃の話だ。当時はまだ、この短大には毎年600人からの3部生が送り込まれており、2000人もの3部生が学んでおり、学生の過半は3部生だった。

 その要請は、裏返せば、すでに万の単位の学生を送り出していたわけだから、彼女たちの最終学歴を無に等しくしたくはないとの願い、と私には感じられた。そこに、何故か、私は責任感を抱いた。

 それはともかく、6年後に学長を引き受けたが、その年が最後の3部生を20数名迎えた年になった。1部の学生も定員割れを生じさせていた。結局、私は学長の任を1期3年間勤めただけで辞したが、その時は1部の全学科が定員オーバーの短大に生まれ変わっていた。だからこの度、「ヨカッタ」「報われた」と思ったわけだ。正確に言えば、「3部の学校に努めてヨカッタ」。私は3部の学生に「報われた」と思ったわけだ。だが、3部学生に対する意識の面で、少し反省を迫られる思いもしたことになる。

 1期3年で学長の任を辞したわけはいくつかある。その1つは、もちろん約束を果たせたことだ。3年で全学科定員オーバーになり、「日本1の短大にしよう」と叫べるまでになっていた。それ以上に、その年は、3年前に迎え入れた20数名の3部生が卒業し、全員が1部の学校になったことだ。

 朝ドラを観ながら得心したことだが、「3部の短大に努めたおかげで」、私は「一隅を照らす」人になろうと叫ぶことから始まり、ついには「小さな巨人」を送り出す学校を標榜し、全学科定員オーバーの1部短大にさせてもらえた。それは誠実な勤労学生が醸し出す校風に「報われた」わけだ。世間では「小さな巨人」をつくる学校として知る人ぞ知る学校になっていた。もちろん、3部生を尊重する私を支持した1部生のおかげでもある、と考えている。

 私が学長になった年から、入学式や卒業式を(経済性に配慮して、個別に行えなくなっており)合同で開催することになった。それを私はむしろ歓迎し、学生の良識に賭けることにした。

 例えば入学式の祝辞。既に少数派も少数派の20数人になっていた3部生を先に紹介し、「あなた方は社会人として認められた人である」と讃え、「その社会性に学ぼう」と1部生を励ます歓迎の挨拶をした。新入学生は咳払い1つせずに耳を傾けた。私はとても嬉しかった。

「女工さんの学校」と卑下する人が多く、現実に最寄り地域からは入学者がとても少ない学校だった。だから私は若者の感受性に駈ける方針を次々と打ち出した。それは、勤め始めた頃から蛍の飼育もするクラブを立ち上げ、蛍の夕べをもよおし、近隣住民を招待することから手を付けていた。研究と教育もさることながら、社会貢献を尊ぶ校風を目ざしたかった。

 全学禁煙キャンパスはもとより、地球環境の大切さを認識する学生を標榜し、ISO14001認定校にもなったし、教員と学生が学内清掃に当たり、年に1度のことたが近隣の清掃も始めた。こうしたことを次々と打ち出し、すぐさま軌道に乗せられたのは、ひとえに3部学生が醸し出していた校風のおかげであった、と思う。その感受性に駈けて「ヨカッタ」「報われた」と思ったわけだ。

 実はこの度、その賭けが必ずしも純は発想だけではなかったことを反省もさせられた。もちろん、3部生との面接で、バブル期であったにも関わらず、心を打たれることが多く、その心に賭けたことh事実だ。だが、不純な期待もしていたことを思い出したわけだ。

 3部学生との面接では、入学動機も知ろうとしたが、その多くが、これ以上「親には負担をかけたくない」とか「弟には4大に行かせたい」などといったことを語った。そうした思いは、形になるものだ。30年近い歴史がある学校だったが、講堂の椅子を始めとして、荒れたところが見いだせない学校だった。トイレは浄化式で、多くはしゃがみ込む便器のままだったが、清潔に保たれていた。

 ドラマとはいえ、この度の朝ドラを通して、当時の集団就職で都会に出て、寮生活を送る若き女性のありようを垣間見たような気分にされた。いわんや、勤めた学校の学生生活は、勤労時間、睡眠など生理的時間、そして就学時間から成り立ち、日々を3等分する生活に勤しむ若者だった。

 私はそうした学生の感受性や想いに、つまり彼女たちの勤勉さや誠実さが醸し出す校風に駈けたわけだ。だが、それらは彼女たちの進取性や主体性の賜物であると確信していたのか、とも自省し、必ずしも「そうだ」とは断言できないわが身を振り返った。その陰に企業の縛りを期待しており、感謝していたような別の一面を己に見出し、恥じ入りたい思い出もよみがえらせたわけだ。

 朝ドラでは若き女性が「カチューシャ」の歌を合唱した。そして当時、ソ連抑留から戻った日本兵からロシア民謡が伝わり、日本中で穏やかなロシア民謡が歌われ流行っていた、と紹介された。極寒の地に抑留され、強制労働につかれた人々が覚えて帰った歌が流行していたわけだ。

 そうした時勢を振り返り、戦前の日本に引き戻されてはならない、とつくづく思った。