講談社の「読書人の雑誌『本』」の5月号で、国末憲人の「フランスの後姿に見えるもの」にまず触れた。そして田中秀征の「保守本流と自民党本流」を読み始めたところで終わった。
「フランスの後姿に見えるもの」で、国末憲人は自著『ポピュリズムと欧州動乱』の紹介をしている。フランスでルペンが大統領に選ばれたら「どの様な世界になりかねないか」と考え、それを記した一著のようだ。指標の見えない、行き先さえ分からない混沌とした時代であるだけに、とても心配している様子がうかがえる。ロシアの大統領プーチン、アメリアの大統領トランプと組んで、ルペンは世界をあらぬ方向へと導きかねない、と心配している。
「なるほど」と思っていた矢先に、トランプがCIA長官を解任した、とのニュースに触れた。アメリカの大統領選時のプーチンとトランプの関りを、この長官は究明しようとしていたらしい。もしそれが事実なら、トランプはCIA長官を解任するのではなく、大統領の職を自ら辞すべきではなかったか、と思う。それが結局、猛々しい生き方をするトランプ自身のためでもある、と思う。
このようなことを考えながら、ミホ・ミュージアムに出かけた。江戸時代の和ガラス細工の数々に触れたかったkらだが、期待以上であった。なぜか当時の豊かな立場にあった人たちの人となりや穏やかな生き方が透けて見えて来そうな気分にされた。
改めて、これから人類が目指すべき方向や生き方を連想させられた。秀吉は猛々しい戦国時代を収束させ、束ねんがために「刀狩り」もしたのだろう。幕府は「銃狩り」にも成功しており、穏やかな江戸時代をながきに渡って栄えさせている。色々なことがあったわけだが、日本人はこの江戸時代がもたらした穏やかな時代とそこでの生き方を誇りにして、世界に向かって胸を張っていいのではないか。地球を丸く収め、持続性を求める上での、最も望ましきモデルだと思う。
少なくとも、日本人は再び群雄活気して、日本人同士で血なまぐさい争いを始めるようなことはないだろう。そうした日本人の気風は江戸時代が生み出させた、と断言してよいはずだ。
このようなことを考えながら、ペイジを繰り、田中秀征の「保守本流と自民党本流」を読み始めた。だが、そのペイジに目を通していたところで最寄り駅についてしまった。
そして、新聞を開き、細川元首相が「江戸時代」を賛歌し始めたことを(雑誌の広告であったように思うが)知った。細川元首相のような人に「日本を束ねてもらいたい」。そして、日本人の資質を穏やかなる方向で活かしてほしいものだ、とせつに願った。
その後、TVで首相が憲法改正断行の意向を叫び、しかも上気気味にその期限まで語りかける報道に接した。おのずと、読み始めでおわった田中秀征の「保守本流と自民党本流」の冒頭を思い出した。
現首相が最も尊敬する人はその祖父だとかねてから聞いていた。だが、その人は日本で最初に政治の世界で派閥なるものをつくった人であり、画策し、首相になっている。そのおりの中核をなした人たちは、田中秀征によれば、A級戦犯で命拾いした人や、公職追放を解除された人たちであった。だからおのずと、こうした人たちの目から見れば、現憲法はいかなる位置づけであったのだろうか、と思わざるを得なかった。
アメリカから押し付けられた憲法云々と言うような話ではない。アメリカから押し付けられた憲法という言い回しは詭弁に過ぎない、はずだ。何せ前週に、NHKスペシャルで、新憲法が誕生した根本を知り得ていた。「7人のサムライ」と紹介された日本人が起草した新憲法草案が土台になっていた。このNHKが掘り出した事実は、政府要人は先刻承知であったに違いない。
この「7人のサムライ」は、どのような人たちであったのか。明治憲法に基づく諸法によって排斥されたり、いわゆる「共謀罪」によって逮捕されたり投獄されたりしている。敗戦後に、A級戦犯にされたり公職追放されたりした人たちの目から見れば、許しがたき人たちと映っていたわけだ。
その気持ちは分かる。こうした許しがたい人たちとは逆に、褒め讃えられて喜んだり、戦地で藻屑となって褒賞されたりした人たちの方を沢山生み出してしまったのだから。
国の危機を叫び、無謀な戦争を起こす気運を醸し出し、徴兵制までこしらえて、奇襲攻撃もした。この命令に逆らった人もあれば、こうしたやり方に従った人もいたわけだ。
いずれを大切にすべきか。私は共に尊い人たちだ、と思っている。30歳ごろまでは、命令に従って散花のごとき人生を送った人たちを賛歌していたし、今も同情している。
だが、問題は、次元を異にする。
憲法とは、政治家などの権力を縛る法律である。国民が主権者として、権力に規制をかける法律である。井上やすしは生前、憲法は、国民が権力者に向けて交付する「命令書」である、と喝破している。その通りだと思う。政治の横暴や暴走にタガをはめる国民の「命令書」である。
国会は、その「命令書」が許す範囲で諸法を作り、その処方で政府は国民を規制する。つまり、憲法は、政府が「代えるの代えないの」を軽軽に言い出せるものではない。いわんや、日限まで語れる筋合いのものではない。それ自体が「憲法違反」だ、と主権者たる国民は叫ばなければいけない。
荒っぽいたとえだし、現幹事長の忠告「比喩に気を付けろ」にも反するが、またあえて用いたい。
諸法は国民の「命令書」である憲法に基づいて造られるが、その諸法によって国民は縛られるわけだ。だから「犯罪者」が、その罪を問うた法律を「期限を切って代える」と啖呵を切れば、笑い者にされるだろう。ほら吹きか、誇大妄想狂か、あるいは傲慢な人のように思われ、笑いものにされかねない。
同様に、政治家が、憲法を「期限を切って代える」と啖呵を切ればどうなるか。それは笑いごとでは済まない。傲慢を通り越して恫喝にも近い話になりかねない。
でも私の目には、どうしようもない亭主の芝居に見えた。村で家族が孤立するようにもって行き、女房や子どもには、今にも押し込み強盗が襲ってきそうな心境にさせる亭主の芝居だ。女房に力こぶを見せ、「オレに任せろ」と上気して迫る亭主のごとくに見えた。
問題は、そういう亭主にかぎって「近くの親戚より、遠くの他人」に頼ろうとする傾向があるようで、哀れでもある。
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