もっとどす黒くて、悪質で、深刻である

 

 昭和23年12月23日、A級戦犯7人は処刑され、岸は免れた。

 この一文を知ることで、岸は2つの幸運が重なり、命拾いをしたことが分かった。その1つは、東京裁判が判決までに3年もの歳月を要した(ドイツのニュルンベルグ裁判と違い、歴史に残る真摯な審理が重ねられた結果であり、それはNHK TVが昨年暮れの12日から4夜4回にわたり報じた「ドラマ東京裁判」が明らかにした)ことだ。2つ目は、その3年もの歳月が世界情勢を大きく変えていたことだ。

 A級戦犯7人の処刑執行の翌年10月には人民中国が建国しており、その1年後に朝鮮戦争が勃発している。冷戦が勃発していた。つまりA級戦犯7人が処刑された「昭和23年は特筆すべき年」になった、

 田中秀征は、共産主義台頭の機運をうけて「年明け早々にロイヤル米陸軍長官は『日本を、反共の防波堤にする』と宣言」しており、「それまでの民主化、非軍事化の対日基本方針を180度転換した。それまでの対日方針が、2度と戦争を起こさないように『日本を弱くする』ことであったのを、共産陣営の侵攻を跳ね返す『日本を強くする』方針に転じた」のである、と指摘する。

 それは岸が、当時の心境を「冷戦の推移は巣鴨のわれわれの唯一の頼みであった。これが悪くなれば、首を絞められずにすむだろうと思った」と述懐していたと田中秀征が記していることで明らかだろう。岸の読みは的中し、おそらく身の振りようは功を奏し、絞首刑を免れたのだろう。

 次の特筆すべき年は、60年安保の年であろう。岸は身を張ったがごとくに安保に執心しており、アメリカに「生かしておいて良かった」と思わせたに違いない年だ。

 問題は、岸の身の振りようである。かつては朝鮮を従え、中国を侵略し、米英鬼畜を叫んでいたわけだが、絞首刑を免れた後は身をひるがえしている。それは、アメリカにすり寄ることによって、戦前のアジアを見る目を改めずに済ませようとしたことだ。

 田中秀征は、「岸は折に触れて、自分の考えは戦前、戦中戦後を通してそれほど変わっていないと述べている。それは、年を重ねるとだんだん強調されるようになった」と指摘している。そして、「岸が晩年のインタビューで、戦前に彼が夢見た『大アジア主義』は戦後彼が目指したものと同じだと述べている。満州での戦前の彼と戦後の彼は『一貫して』いて『断絶はない』とまで言っている。これは日本を盟主とするかつての『大東亜共栄圏』思想を正当化するものと言ってよいだろう」と綴っていることで読み取れることだ。これ自体は実に巧妙なやり口だろう。

 岸はまた、原発推進にも執心した人でもある。「これで、原爆を造ることできる国になれる」と喜んだことを回顧録に記してもいる。この願いを岸は国民に知らせずに原発推進に邁進している。

 現政権は、この岸の想いをかなえんがためのごとき動きをしているようだ。戦前とは異なる形で沖縄をまた捨て石かのごとくにしているわけだ。さらに、この夢をかなえんがために、戦前と同様の縛りを国民にかけんがために「共謀罪」法案を強行に施行しようとしてもいる。それは戦前同様に国民の創造性を委縮させることは必定であり、深刻な問題である。

 それは世界の潮流に、逆行であり、遅れを取り、戦前の二の舞になる。世界は今、国民がいかに創造性豊かになるかを競っている。それが経済戦争の要と考えられている。日本国民は、世界を「日本の時代」にするほどの素養に恵まれているはずだ。江戸時代と言うモデルも有している。また、戦争を放棄した憲法も有している。現憲法は、戦前の「共謀罪」法案のごとき法で逮捕や拘束された人たちが生き残り、「7人のサムライ」となって編み出した試案に基づいている。

 日本国民は、信じて、大事にして余りある国民ではないか。