『罪と罰』

 

 中学1年生の時だった。姉は嫁いだが、そのときに世界文学全集を残した。その中に『罪と罰』もあった。高校2年の時だった。世界文学全集を読むことを覚える機会に恵まれた。それまで、およそ読書などには興味がなかったが、「激痛は、一刻一刻過ぎ去ってゆく」との、まるで悟りのような気分にもなる機会を得て、読書に逃げた。利き手の中の3本の指を、すんでのところで失いかけた事件に巻き込まれ、その激痛をまぎらせたくて、読書に逃げた。中指に至っては、関節の骨がつぶれ、中程からブラブラした。その恐怖もまぎらせたかった。

 2週間後からこのありあわせの読書に手を出した。「激痛は、一刻一刻過ぎ去ってゆく」と考えるゆとりも出来た。これが読書の面白みに初めて触れた機会だった。その1つが『罪と罰』だった。

 なぜこれを思い出したのか。それは簡単だ。強弁が一転して再調査になった事件を知るに至る(新聞々ロメ読みの)課程で思い出したのである。

 文科相は「国民の声に押されて」と話し、首相は「徹底的に調査するように指示した」と語った。さて、この一件はどこに落ち着くのか。いよいよ面白くなった、と思った時だ。

 文科相は「国民の声」と言ったが、省内にも様々な声がある訳だ。官僚のさまざまな思いや想いが注目される。ここが真の官僚にとっては「起死回生の好機」と睨む向きがあって当然だろう。その誇りや存在意義に目覚めたくなれない、と言えばウソだろう。民が主でなく、政権が主の意向にふりまわされ、委縮せざるを得ない仕組みを悦ぶ官僚ばかりではないだろう。

 文科相のさまざまな思いや想いにも要注意だ。どこまでをもって「国民の声に押されて」と話したのか、「その」突き上げのほどを偲びたい。

 それはともかく、首相はどこまで考えて「徹底的に調査するように指示した」と平然と発言したのか。そこに、驕りの油断はなかったか。いつもの調子で、この度も、このリップサービスですり抜けられる、と見て取ったのではないか。その思う壺に、国民は終始させるのか。

 「国民の声」を持ち出した文科相の想いや思いは不明だけれど、国民も試されている。既に誰の目にも、と言ってよいほど黒白は見えている。

 『罪と罰』では、ソーニャは立ち上がり、金のための老婆殺しを自首し、償え、と勧めた。それは自分に正直であれ、との訴えであったように記憶している。さもなければ、心を込めて付きあえる間柄をたもてないではないか、との叫びと思いたかった。

 あの夫婦は一体どうなっているのか、と不思議に思った。夫人がウソをついていないのであれば「悪魔の証言などと屁理屈など言いっておらず」「私を証言席に出してほしい」「事実を語りたい」と夫に迫って当然だと思う。偽証か否かは、司法が決めてくれる。

 もう一度『罪と罰』を読み直さないといけないのかナ。