考え込まされることしきり |
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昨年はタマネギの苗を植えそこね、もらった苗を遅ればせながらに植えた。遅ればせも遅ればせで、それは成長途中のタマネギをやむなく抜きとったものだった。それには理由があった。 知人は、ずいぶん昔に、農家の耕作放棄地を借りることができた、と言って喜んでいた。アイトワと付き合うようになり、家庭菜園の意義を知った友人が、幸運に恵まれたわけだ。税制上、農地は遊ばせておくより耕作している方が有利といって、無償で貸してもらえることになったからだ。クリやウメなどの木も育つ農地で、その実も好きなように収穫し、好きなように活かせばよかった。 そうした年月が20年近く続き、知人はまるで兼業農家のごとき生き方を身に着け、作物の出来栄えに、しばしば私は感心させられるようになった。 だが突然、端境期を待たずに「すぐに明け渡してほしい」と地主に迫られる不幸に見舞われた。タマネギの苗はやっと根付き、これから太ろうとしていた。キャバツは玉を作り始めていた。 その農地は外国人が譲り受け、宅地にする、と言う。 わが家は、タマネギの苗を100本以上と、ちいさな玉だが、すでに玉を結んだ6本の赤キャベツをもらい、植え直した。すでに霜が降る時期が近づいていたものだから、もみ殻を分厚く敷いた。遅れた分を挽回しようと、正月以降になったが、3日に上げずに液肥をまいた。そのおかげだろうか、このたび、収穫に当たった妻に、「小なりとは言え、マネギらしく育ちました」は労ってもらえた。 私はむしろ、宅地にされた農地の方が気になった。今日現在では、すでに外国人が住まい始めていることを知った。こうしてお金が動き、GDPを押し上げ、豊かさのバロメーターとして活かされた。 それが本当に豊かなのか、と私は複雑な気持ちにされた。それは、決して買主が外国人だから、と言うわけではない。農地が宅地に化かされたり、そのためのつなぎのごとき耕作を喜んだ友人の気持ちに思いをはせたりしているわけでもない。 この農地を失った友人から引き継いだタマネギと、神代の時代から連綿と耕作してきたと思われる人たちのタマネギを見比べながら、私は何を気にしているのだろうかとわが身に問いかけている。 |
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