感受性の差異
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このような博物館は初めて見た。もちろんそれは、私の浅薄な経験のせいであり、他に幾つものこのような博物館があるのかもしれない。あるいは、これが昨今の博物館の傾向かもしれない。それが傾向であるとすれば、素晴らしいことだと思う。 たんば恐竜化石でも有名になったのだろう、小学生が授業の一環として大勢が押し掛けていた。大勢の小学生が、立ち止り、時には群がり、あるいは小走りで、展示物の間を行き来していた。ある子は、しばしば駈けている。一か所で立ち止り、凝視する子どももいた。教諭らしい人は見当たらず、めいめいが勝手に見学していたように見えた。何故かこの時にフト、私がこの中の1人であったとしたら、何に関心を抱き、衝撃を受け、どのような動きをしていたのか、と思った。 このような思いに駆られながら、館に踏み込んで間なしの時に、なぜか子どものために用意された館めぐり(スタンプラリー)用紙をもらっていたが、ヨカッタと思った。 この館巡りに午前中を割いていたが、知人との再会時間をもう1時間遅らせて置けはヨカッタ、と思ったほどだ。だが、館を後にするときには、ラリーのスタンプはすべて得ていたし、「開発」は「破壊」であったことを追認していたし、「繁栄」は環境の「疲弊」と同義語である、と思うに至っている。また、どうしたわけか、「沈黙」は「傍観」に過ぎず「卑劣」でもある、とココロのどこかに言い聞かせ始めている己に気付かされていた。 入館後すぐのことだった。この施設は、五感に訴えようとしていると気付かされた。と同時に、身近な生物相がいかに多様であるかにも、あるいはその多様な生き物が1つの船に、つまり宇宙船地球号に乗り合わせていることにも気付かせようとしている、と感じた。 人間の位置づけにも丁寧な説明があった。人間も、1つのバクテリアから派生した多様な生き物の1つに過ぎず、あらゆる生物、つまり動物も、植物も、はては細菌までもが兄弟姉妹であることが容易に理解できる。人間はアフリカに誕生し、ユーラシア大陸を経てアメリカ大陸にまで広がったこと。ゴリラやチンパンジーはほんの近しい関係であること。こうしたことがよく分かる。 後年になって私が知りえたことを、この子どもたちはまるで三つ子な魂にしているわけだ、と感じた。何としても、この子たちにも、良き友達と思ってもらえる老人になりたい、と願った。 ひょっとすれば、と妄想まで生じさせた。この子たちは「戦争を始めること自体を犯罪」と見るココロもここで、こうした施設で育むのではないだろうか。育んでほしい。 昨今の私たちは、いかなる消費生活をしているのか。それを5人の家族を例にして、振り返らせる一角だけでなく、希少な野生動物は、人間が希少にしてきたことにも気づかせるコーナもあった。つまり、人間が「開発」と思っていることが、自分たち生きとし生けるものすべてが乗り合わせている宇宙船地球号の「破壊」であったことや、私たち人間が「繁栄」と思ってきたことが自然の「疲弊」と同義語であったことにも気付かせる展示の工夫もされていた。 知人との待ち合わせ時間が近づき、急ぎながら、フト考えた。なぜか、「沈黙」は「傍観」と同義語ではないか、と。この子どもたちにとっては「卑劣」と同義語になるのではないか、と。 「お待たせ」との知人の声が、現実に引き戻した。 |
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館めぐり(スタンプラリー)用紙 |
五感に訴えようとしている |
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身近な生物相がいかに多様であるか |
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人間の位置づけにも丁寧な説明があった |
細菌までもが兄弟姉妹であること |
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ユーラシア大陸を経てアメリカ大陸にまで広がったこと |
ゴリラやチンパンジーはほんの近しい関係であること |
5人の家族を例にして、振り返らせる |
希少な野生動物は、人間が希少にしてきた |