感動した催し
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「Where civilization meets
nature」でないことに安堵し、なんとしても出掛けたかった。工業社会のいかなる延命策にも未来はない、と私は睨んでいる。問題をより複雑にして、結末をより悲劇的にするだけ、と見ている。 アンモナイトでも足をとめたし、苔のミニ地球でも足が留まった。カタツムリのところでは、わが家の庭には「ここにない種もいる」と嬉しくもなった。 由緒正しき町家を巡りながら、限りなき未来志向を見て取った。1つ1つの展示物が、まるでキラ星のごとき言葉のように感じられた。そうした言葉が続く文章を読み進んでいるかのごとき思いに駆られながら、その文脈や行間に興味がわき始めた。そして大げさだが、この催しの意図の先に、わが国にババを引かせずに済ます秘訣(切り札)が隠れていそうだ、と思った。人間の手になる本来の文化を見つめ直す近道を感じた。 その思いは、この日限りの講座にでている間に、次第に1つの想いとして膨らみ始め、ついに、誤解を受けそうだが、と心配しながら質問の手を挙げた。「文明」と「文化」、そして「欲望の解放」と「人間の解放」について、少し探りを入れたくなったからだ。 文明を私は、一種の発狂(狂おしさを助長する)システム、控えめに言えば一種の人口爆発(それを繁栄と見させる)システムと捉えている。そうした狂おしい繁栄が、古代(農業)文明をことごとく限界に誘い、崩壊させた。同様のことが工業文明でも露わになり始めた。これが40年前の私の気づきであり、1973年の「第4時代」待望論だ。 「第4時代」とは何か。その可能性(移行するにあたいする価値)を誰が気付けばよいのか。それを環あたしはライフワークにしたくなった。その足掻きの経験から見れば、このたびの企画の延長線上に切り札が、つまり「第4時代」に登るハシゴがあると思われた。 |
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太古の世界が待っていた |
この陣羽織の前 |
有名な旧家の暖簾をくぐると、太古の世界が待っていた。次いでたたずんだのはこの陣羽織の前。歩を進めるに痛がって、次第に限りなき未来志向を見て取るようになり、胸が高鳴った。この延長線上に切り札がある、と思えたからだ。幸いこの日は、この日限りの催し(講座)があり、家族枠で拝聴でき、構造色について最後の質問者となった。 |
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この日限りの催し |
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アンモナイトでも足をとめた |
苔のミニ地球 |
カタツムリのところでは |
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