日本のありようを嘆く

 

 ある高校の先生から、生徒に庭見学をさせてやってほしい、とかねてから申し込まれていた。私は、人生を振り返り、胸を膨らませた。高校2年の暮れから受験浪人の10月までの2年足らずが、私の人生を決定づけた。それだけに胸を膨らませた。

 いよいよ当日になったが、「まず下見をしてから」となった。引率した生徒に自由行動させ、その間に3人の引率者が立ち寄ってくださることになった。時間は限られていそうだ。

 私は当時(55年体制が始まった年)を振り返りながら待ち受けた。肺浸潤が快方に向かわず、むしろ悪化していた。その年の暮れに、右手の中指3本を失いかねない大ケガをした。その時に、初めて手にした世界文学全集(姉が嫁ぐときに残した)に、激痛(傷口がふさがった時に自分で指を曲げるリハビリを始めたが、激痛を再体験した)を癒された。やがて浪人生活に入った。その年の10月に知的障害者(源ちゃん)のおかげで「至言」というものに目覚めている。

 これらのオカゲで、私は相矛盾する道を歩み始めることができたのだろう。アタマでは工業社会の波に乗り(工業デザインを学び、総合商社に就職し、既製服化という工業デザインの手法を活かす道を選び)ながら、カラダは農業社会に馴染もうとした。受験を終えると同時に荒れ地の開墾に手を付けており、今日に至っている。その庭に、高校生を案内したいとの要請だ。

 だから、高校の先生など3人を迎えた時に、「せめて源ちゃんの真似ごとでもしたい」と話しかけている。源ちゃんの至言のおかげで、大学で知り得たウイリアム・モリスの至言にも感動したのだろう。少なくともカラダでは、工業文明の終焉を感じ取っていた私は、鶏を飼い始め、植樹に一層力を注ぎ始めている。当時は、時代に逆行と笑われたが「今に見ておれ」と心の中で叫んでいる。

 3つの出来事に恵まれていなければ、今でいえばテロと呼ばれる分子になっていたかもしれない。日本はまだ貧しく、自動車の総生産台数は数万台ほどだった、と思う。集合住宅が出来始めており、まぶしかった。さまざまな矛盾が目立つようになり、抑えきえない衝動に悩まされていた。55年体制は「もったいない」を旨とするそれまでの生き方にかえて、日本人を「消費は美徳」へと誘った。

 3つの出来事に恵まれていなければ、今の私はあり得なかったし、この庭は出来ていない。つきつめれば源ちゃんの至言のおかげで、工業文明に次ぐ時代を想像し、次代が許容するに違いない生き方になどあこがれていなかったと思う。そのモデル創りなど始めていなかったと思う。

 おかげで、ブッシュ大統領が911に際し「文明への攻撃」と叫んだ時も、トランプ大統領が過日のテロを「文明への攻撃」と見た時も「さもありなん」と感じている。両者は工業文明にとりつかれており、前者は「京都議定書」を、後者は「パリ条約」を踏みにじった。

 問題は現在だ。55年当時以上に大きな変革がすでに始まっており、深刻の度を増している。だが多くの人は、その波に乗りそびれている。その狂信的追随者がブッシュやトランプを大統領に選んだのだろう。同様に、わが国でも現政権を出現させ、未だにその化けの皮を剥がせていない。

 私が今、高校生ならどうしていたか、とも考えた。当時より以上に息苦しかったに違いない。当時は、欲望の解放を促す潮目であり、分かりやすかった。だが、今はもっと素晴らしい道へ踏み出す好機なのだが、3つのキッカケのようなことに恵まれなければ踏み出しにくい。なぜならそれは「人間の解放」であるからだ。それは「欲望の解放」の裏返しのような一面がある。それだけに、このたびの要請に接した時に、胸を希望で膨らませたわけだ。

 実は今週、2つの映画『人生フルーツ』と『トゥルーコスト』に触れた。手前みそだが、それらは私にとってはとても得心しやすい内容であった。前者は、わが家の生き方と類似の範疇だし、後者は拙著『「想い」を売る会社』の趣旨の一つの映像化といえる。『人生フルーツ』は、静かなるブームを呼んだ。『トゥルーコスト』では、ファッションシステムという言葉が使われていた。この言葉は40数年前に、勤めていた商社に創業させてもらった子会社の社名にと、私が生み出した造語だ。ファッションをシステムとして捕え、経済の活性化を目指したが、やがてそれが諸悪の根源だと気付かされ、足を洗った。

 こうした映画が人々をひきつけ、静かなるブームを呼ぶ時代になっていた。だから自ずと、私は四半世紀前を振り返っている。短大からの招聘を断りに行った日のことだ。ある至言に触れ、引き受けてしまった。それは理事長の「私たちは21世紀からの留学生を迎えています」との一言だった。

 迎えた3人に、この理事長の一言を思い出しながら、矢継ぎ早にキーワードを伝えた。だが、反応が悪い。ついにお1人が「ここの生活は、どのような生き方か」と言ったような質問をされた。その瞬間に、私は「シマッタ」と思った。何の下調べもせずに、お越しになっているのではないか。

 例えて言えば、婚約者を紹介されることになっていた日に、当の女性が、そもそも「あなたは女性ですか」との質問をぶつけられたような心境だった。それぐらいのことは「お調べになっていないのですか」と思わせられた。だが、相手の男性のことを思えば、手堅い質問だろう。誠実に答えた。だが次第に、この3人には「説明」では収まらない「説得」の必要性を感じずにはおれなかった。

 失礼なことをした、と反省したが遅かったように思う。

 次の来客は、乙佳さんの引率だった。ウイリアム・モリスをご存知なかったが、話しはかみ合ったように思う。「説得」を要さず、「説明」で済んだ。

 つくづく、近年の日本のありようを嘆いた。義務教育だけでなく、高校までが、時代錯誤に苛まれているように見える。子どもたちの才能を、それぞれ固有の才能を引き出すのではなく、既定の知識を刷り込むことに執心している。それを視聴覚の二感で刷り込む機械のごとき立場に先生は位置づけられており、その忠誠度で評価されているかのごとくに見える。気の毒ではなく、もったいない。

 それは2重、3重の間違いを犯していることになる。まず私の目には、尋常小学校で戦慄を覚えた軍事教練のごとくに見える。仮に、これから武力戦争を始めるとしても、それではAI兵器やAIロボットには歯が立たなくなるだろう。よしんば武力戦争に勝てたとしても、分かち合うパイ、限られたパイをつぶし合うわけだから、人間は幸せにも豊にもなれない。

 それはともかく、わが国は先進工業国の中にあって、子どもの自殺率は断トツに高い。私の目には、その中に多くの救えていたに違いない犠牲者が見えて来そうな気分にされる。経済戦争下の犠牲者だ。まるで敗戦直前に次々と生み出した武力戦争の犠牲者・特攻隊員のように感じられてならない。

 子どもたちの五感に、四次元的に迫る工夫を重ね、子どもたちの第六感や第七感を健全にくすぐる教育が尊ばれる日本になってほしい。健全なる第六感や第七感の大切さに気付かせる教育、それぞれ固有の才能を引き出す真の教育が施し得る日本になってほしい。

 先生方が、各人の専門を通じて、人間を教え得る日本になってほしい。


 

知的障害者(源ちゃん)のおかげ
 

知的障害者(源ちゃん)のおかげ
 

次の来客は、乙佳さんの引率だった