世間の厳しい評価

 

 そういえば当初は、私は「所得倍増論に反発していた」と、過去を振り返った。大学3年の時に池田勇人は所得倍増論を打ち出した。私は、所得格差も二倍に拡大する、と思って反発した。それがヨカッタのかもしれない。この怒りが、やがて私に気付かせたことがある。それは「未来は、2通りある」との気付きである。

 その後、池田勇人は「貧乏人は、麦飯を食えばよいではないか」といったような暴言を吐き、顰蹙を買った。だが私は逆に、この時はいきりたたず、逆に「そうであったのか。その手があるわけだ」と、手堅いやり方を学べたように思っている。この想いが、その後の人生にズ―ッと付きまとったように思う。

 やがて未来は2つある、と気付かされた。社会人になり、ファッションビジネスに関わるようになってからのことだ。未来は、「願望の未来」と「必然の未来」の2つがあるように感じた。所得倍増論に沸いた人の多くは「願望の未来」を志向していたようだ、と知るようになった。同様に「貧乏人は麦を食え」に怒りを感じた人の多くも「願望の未来」派であったことが分かった。

 実は、私も「願望の未来」派の最右翼であった。だから、ファッションビジネスに踏み出したのだが、どうしたわけか、私は所得倍増論には反発した。なぜか、と振り返った。そうした自問をしている間に、「必然の未来」の姿を躍起になって探り当てようといる自分の姿に気づかされた。

 その未来は次第に、「過去の延長線上にはない」と見え始めていた。それは、念願の大学に合格した時から始まっていたわけだ、と気付いた。工業社会の花形の仕事を目ざしながら、野良仕事に積極的に取り組み始めたからだ。それがその証拠、と考えた。当時から、「清貧」ではなく「清豊」(自活のすすめ48)を手堅いやり方で、躍起になって追い求めていたことになりそうだ。

 「必然の未来」に焦点を当てたおかげで、1973年ごろには既に、工業社会の破たんを見通し、次代の骨格を描きあげている。振り返ってみれば、それは的中していたことになる。だが、他の人には受け入れてもらえなかった。それどころか、「ケッタイナことを言う人」とか「まるでサカサマ」の主張をする人、ヒドイ人は「マイナス志向の人」と見なし、嘲笑した。にもかかわらず、経営的には増収増益を続けていたから、取材の依頼は引きも切らなかったし、講演依頼も多かった。

 だから、勢い余って、1986年にシビレを切らせている。脱サラし、その想いを「ポスト消費社会の旗手」を目指そう、との提唱として、バブル現象が高まリ始めた1988年に世に問うている。多くの人にはサッパリ相手にされなかった。

 世間では今も「願望の未来」に酔っている人が多いように私は見ている。その典型は、現政権だろう。だから「一点の曇りもない」と啖呵を切る人を続発させながら、ことごとく事実を非公開にする人を続発させている。誰一人として、一点の曇りもない事実を明らかにしていない。だから、日本の政治や政治家はなってない、と思う人が多数だろう。私もそう思っていた。

 ところが、捨てたものではないことが分かりかけて来た。キッカケは5月から『本』で始まった連載記事だ。元をたどれば、石橋湛山に行きつき、石田博英、池田勇人、そして宮澤喜一につながる人たちの努力だ。その対極に、岸信介に始まる180度逆の一派があり、し烈な確執があったと言う。

 石橋湛山が打ち出した「小日本主義」は、名称はいかにも縮こまり志向に思われる。だが、実態はまるで逆であったようだ。積極経済であり、積極財政のいわゆる成長派であり、池田勇人の所得倍増計画を、その秘書官であった宮澤喜一(大蔵官僚)が推進している。本気で「国民の生活のために」を考えて取り組み、実践した人たちだ、という。

 逆に、岸信介に始まり現首相に至るつながりは、国民の生活を本気では考えていない。だから、臣民の義務だけが記された教育勅語に惹かれるのだろう。世間は昨今、それに気付き始めており、厳しい評価を下し始めた。次週はいよいよ、そうした人たちが2日に分けて、丁寧に証言することになったる。これを、国民に与えられた充分なる弁明の時間、と認識できているか否かが見ものだ。おりしも、今年から道徳が正規の教科になる。その生きた手本を示している、との自負は保ってほしい。

 この間に、私が知り得たことがある。いずれも周知の事実だという。岸信介は戦争犯罪者にされたけれど、児玉誉士夫や笹川良一とともに放免されている。岸信介は満州の長であったが、当時、日本の中枢は満州に移る、と考えていた臣民けっこういたようだ。

 それはともかく、岸信介たちは戦後も、米国と一緒にやれる仲間とみなされ、命を救われたわけだ。その後、現首相につながる改憲派は、CIAを通じて、日本の外交政策を米国の望むように導く見返りとして資金援助を受けて来た。これは既に外交文書の公開で明らかになっている。その間にあって中曽根は、レーガンに、日本を不沈空母と認識するように勧めている。