オリンピックと共に時代錯誤

 

 東京オリンピック開催を、私は未だに疑問視している。それも以前とは違い、その想いは大きく変わった。以前は、原発事故についてウソまでついたことはまだしも、311対策に国を挙げて取り組むべきだ、との想いだ。この理由をつけて「4年後に順延」させてほしい、と願い出るべきだ、つまり、復興の足を引っ張るようなお祭り騒ぎは二の次にすべきだ、想いだ。

 だが今は、東京オリンピック開催を急いだ理由が透けて見え始めており、情けなくなっている。現政権は、オリンピック開催を、わが国を私物化する上での格好の手段、と睨んだのだろう。だから、コントロールやブロックという言葉まで用いる巧みなウソが飛び出したに違いない。オリンピックをテコにしてなんとしても「共謀罪」を成立させたい、とお思いがそうだせたのだろう。

 このまえ、311対策に国を挙げて取り組むべき立場の閣僚が「東日本で生じたのが幸いだった」といったような発言をしたが、その時に私は安堵の念で受け止めている。もちろん、すぐに、その真意を知り、怒り心頭に達した。と言うより、虚脱感に襲われた。それは、私なりに、次のような受け止め方をしていたことへの反動でもあったのだろう。

 私は、大臣は「東京など巨大都市でなくて、不幸中の幸いであった」と言ったのだろうと受け止めた。つまり、無事であった東京を始めとする主要巨大都市が「明日は我が身と思って」総力を結集し、東日本の同胞の救済と復興に当たろう。今からでも遅くはない、この実情を見過ごせない。オリンピックはキャンセルさせてもらうべきだ、との雄叫びに違いない、と思っていた。

 かつて、戦争が原因で東京オリンピックをキャンセルしたことがある。それを思えば、今度は歴史を画するキャンセルになり、いずれは尊敬の対象になるはずだ。もはや時代遅れの催しだ。現に、東京に次ぐオリンピックの先行きは心もとなくなっている。

 国を挙げて同胞を救済することこそ先決だから、東京オリンピックをキャンセルしたい、と申し出たら、戦争が原因よりは暖かく受け止められるだろう。少なくとも、国として東京に次ぐオリンピックにエントリーしながら、国民投票で辞退させた国々の人々の喝さいを受けるに違いない。

 そして、世界が見守る中で同胞の救済や、地域の復興問題にとどまらず、原発処理に真摯に取り組んだら、それがわが国の未来を切り拓かせる決め手になるに違いない。なぜなら、人類はいずれ地球上からすべての原発や原子力兵器などをことごとく解消しなければならなくなる。その面で世界を主導する技術や力を養うことだから、国の存在価値はいやがうえにも増すだろう。おおげさにいえば、それが資源小国である我が国の大事な安全保障ではないか。

 そもそもオリンピックそのものが、木材資源を枯渇させた古代文明のオトシゴであり、近代文明が復活させた。だが、その時代は既に過ぎ去っている。それは万博も同様だ。万博は化石資源を枯渇させる工業文明のオトシゴであり、もはや時代遅れも甚だしい。大阪のみならず、国を衰退させるきっかけとなりかねず、他山の石と見習う国を続発させるに違いない。

 あえて言えば、ババつかみ競争をしていたようなことになるだろう。これは、文明の根本的欠陥の問題だ。

 週末にあった核ごみ処分「適地」の公表もなさけない。これは受益者負担にすればよい問題だ。いずれはそうせざるを得なくなる。