「この広告、見た覚えがある」と思い、古い新聞をひもときはじめた。「見た覚え」と感じた理由はすぐに分かった。モノクロで、サイズが同じ、だけではない。人々が今、最も大事にしなければ話題をともに似た感じで取り上げていた。だが、よく見ると、その取り上げ方はまるで逆さまだった。
先週末の「読売」の分は、「怖いなア」とか「怪しいナ」と思っただけで読み流していたことになる。今週の「朝日」の分を見て、振り返り、ともに真面目に読み直し、その180度の違いに気づき、愕然とした。
見比べながらまず心配になったことは、私が「読売の分」を読み流したように、「朝日の分」を見て、読み流す人がいるに違いない、と思ったからだ。と同時に、私が「朝日の分」に興味をいだいた様に、「読売の分」にむしろ興味をいだき、丁寧に読もうとする人もいるに違いない、ということだ。
私の記憶では、朝日にはあって、読売にはなかった(?)記事がほかにもあった。読売には、「日本ジャーナリスト協会」の大賞を朝日新聞がこのたび受賞した記事は載っていなかったように思う。朝日新聞も、社会面の端の方で小さく取り上げていただけだから、見落とした人もいるに違いない。だが、この賞はジャーナリズムの使命である「時の権力の監視」と言う役目を見事に果たした特ダネに贈られたものだ。
つまり、「読売の分」と「朝日の分」は、内容がまるで逆さまで、両方を読んでも何がフェイクで、何が真実に近いのかもわからなくなりそうだし、片方だけ読んでいたのでは大変な目に合わされかねない問題を含んでいただけに、大事な選択だったと思う。
いずれの姿勢が望ましき活動なのか、判断ができにくかっただけでなく、間違ったことを頭に刷り込みかねない問題であっただけに深刻だ。これまで新聞の広告面は読み飛ばしてきたが、「そうであったのか」との気づきもあり、少し改めたくなった。いわば広告が代理戦争をしている、あるいはさせているような一面もあるわけだ。
その点、「読売の分」の中にある記事「朝日新聞は『●●状態だ』」との記事が、フェイクと断じる朝日新聞の活動を、「日本ジャーナリスト協会」がジャーナリズムの鏡として表彰したことは、ありがたかったと思う。いずれが真実に近く、いずれがフェイクなのか、片方だけ読んでいたのでは分かりにくかったからだ。
当週は、水木しげるの未公表原稿が見つかったとの報道もあっただけに心配になった。
水木しげるは早1960年代から、大きな悩みを漫画家として抱えていた。ガダルカナルまでの勇ましい勝ち戦をテーマにとりあげないと、人気が出ない、売れないと嘆いていた。戦争がいかに惨めで無意味なことであるかを水木しげるは伝えたいのに、読者が受け入れてくれないという。そのココロが、結局は己に苦渋を舐めさせることになる、と伝えたいのだが、聞く耳を持ってもらえない、と嘆いていた。
北朝鮮とアメリカの幼稚な動きも心配だし、わが国の食料自給率が23年ぶりの低水準だったとの報道も心配だ。日独伊三国同盟ではないが、サギシまがいの人に振り回されかねない環境が整いつつある。
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