創造的な催し

 

 再訪してヨカッタ。見落としていたところはほぼなかったが、何かと予算を削られがちな世の中に合って、ここでは館員が手づくりで数々の試みをしているようだ。このたびは25周年と言うことで、25選シリーズが始まっており、とても力が入っていた。ふと、創造性に満ち溢れた北海道の旭山動物園を連想した。

 25選シリーズの1つに「25の妖怪」の紹介もあり、この館ならではの館員の苦心の跡も見いだせた、ように思う。タヌキやキツネも妖怪の1つに数えており、それらしき場で紹介されていた。傑作は「貧乏神」の紹介であった。タヌキやキツネが、その見えざる意図の予告編かのごとくに感じられた。

 「貧乏神」が紹介されていたコーナーは、かつては貴族の独占物であった代物を展示したところであった。それらを庶民に解放したのが工業文明である、やんわりと気付かせるコーナーといってよいだろう。その横に「貧乏神」をたたずませ、今日の貧富格差の背景を連想させる説明が施されていた

 「マイッタナぁ」とつぶやかざるを得なかった。30年前のわが身の悲壮な思い出を振り返さざるを得なかったからだ。実は当時、高収入という意味で言えば、これほど恵まれた立場はない、と言ってよい身に私はつかせてもらえた。だからかもしれない、その身が恐ろしくなったのか、その恩恵に一度も浴さずに私はその立場を捨てている。

 そうまでして、訴えたいことがあった。その苦心して訴えたいわばエッセンスを、この「貧乏神」を活かしたアイデアはいとも簡単に伝えている、と私には感じられた。「マイッタナぁ」と、その一種のいわば創造性に敬意を表し、つぶやかざるを得なかった。

 脱サラした私は、浮かれ始めた日本のありように対して警鐘を鳴らしたかった。チョットした配慮で、世界から尊敬される国になり得る立場になっていたのに、逆行し始めた。1986年の春、バブルの兆しが見え始めた時のことだ。このままでは、勤めていた会社はアブナイ。それどころか、日本がアブナイ、と思った。オリジナリティに富んだ価値にではなく、土地の投機などいわば不労価値の高騰に浮かれ始めていた。

 結果、案の定と言いたくなる国になってしまった。余談だが、現政権はその二の舞を演じるようなことしている、と私は見ており、とても不安な気分にされている。

 そうした不安を、この館のスタッフたちは感じ取っておられるに違いない、と思った。だから「ここに『貧乏神』を配したのではないか」と憶測し、また「マイッタナぁ」とつぶやきたくなった。

 実は、半世紀前に私はファッションやファッションビジネスの本質に気付かされている。だから勤めていた商社の起死回生策としてファッションシステムという社名を付けた子会社を造らせてもらった。ファッションは「上流社会化現象」であり、ファッションビジネスは「上流社会化産業」であると見抜き、その本質をテコにした起死回生策に手を付けた。

 サラリーマンとしての私は恵まれた一人だろう。28年間、増収増益の恩恵にめぐまれ続けた。だが、そこに疑問と危険を感じるに至り、脱サラし、著作に手を付けた。

 当時を振り返ってみると、私が当時見出し、希望を託した「兆」は正しかったことになる。世界中の若者の間で散見され始めた「兆」があった。バブルが始まりかけた1986年の春に、それを兆しと見てとり、1つの仮説を立てた。日本では消費ブームの始まりに沸いていた。その陰に見え隠れし始めた兆しを私は見出だした。そこで、「ポスト消費社会の旗手」を目指そうと呼びかけたくなり、一書にしたためた。当時は、その仮説は失笑をかったが、文字に固定出来たおかげで助かった。失笑だけを独り歩きさせずに済んだ。それはともかく、私は日本が尊敬される国になることを夢見ていた。

 ついに私は、若き館員に声をかけてしまった。声をかけた女性館員の計らいで、誠に適切な研究員と面談させてもらえた。だから甘えて、この館で私が見出し、勝手に憶測しているこの館の意図のようなものを話題に取り上げ始めた。相手をしてもらった研究員は、その苦労の一環として「上から目線」にならないようにしている、との配慮の声を漏らされた。

 そこですかさず、私は反論した。これまでの世の中を見ていると、「上から目線」という言葉の多用が、今日の貧富格差をもたらした、と断言してよいと私が睨んでいる旨を伝えた。ファッションビジネスのありようと兼ね合わせて考えると、それがまさに「貧乏神」であったことがわかる。口には出さなかったが、その典型は「消費者は王様」というフレーズだろう。王様とおだてあげられた消費者の中には、懐を緩めさせられた人が大勢いたことだろう。

 先週は、紙上でのことだが、生前の水木しげるの嘆きが紹介されていた。ガダルカナルまでの勝ち戦をテーマにしないと漫画が売れなかった、と嘆いていた。漫画の世界と照らし合わせて見ると、世の中では同じようなことが多々生じている。

 そこでは決まったように「上から目線」にならないように配慮がなされ、上手な言い回しなど、が工夫されている。そして、その陰で貧富格差が進んでいる。それが同時に環境破壊に結び付き、さらなる貧富格差の土壌を広げさせている。

 この館こそが、と私は願った。むしろ「上から目線」で世に立ち向かい、この悪循環を断ち切ってもらいたい。そう願いながら、グローバル化する世の中を心の中で嘆いた。

 これまで私は第3次世界大戦を怖れてきたが、それは経済戦争のことであり、経済戦争では武器で殺すよりも残酷であり陰惨な殺し方が採用されるに違いない、と見て来た。結果、貧富格差の蔓延と言う形でその畏れは顕在化し、人々を嫉妬と猜疑の時空に陥れてきた、と私は睨んでいる。しかも、貧富格差に基づく戦死者には、神社も用意されていない。また、その普遍に供せられる要員には恩給の準備もない。もちろんこんなことは口にはしなかったが、とても楽しい見学と対話の時間になった。

 それにしても、一泊出張にして、多くの時間を休養に割いてヨカッタと、思った。英気も養えた。とりわけこの温泉には65歳以上には割引があったが、受付の若い女性が、その証明に値するシロモノを見せてくれないと適用できないと頑張ってもらえたのがありがたかった。「私は79歳になったンです」と語りながら、ココロを元気にしてもらえたことを感謝した。

 温泉では、ジャワを連想する空間で十分にくつろぎ、カラダを癒せた。

 翌朝の散歩では、道端で妻が最も喜びそうな土産を見つけ、拾い上げることも出来た。現実に、妻は大喜びしただけでなく、とても不思議がり、この土産を所定のケースに収めた。

 知人のお宅では、奇跡のような歌声でココロを癒せた。20世紀の奇跡の1つが「マリア・カラス」の歌唱であったとすれば、それに匹敵する21世紀の奇跡が唐突に世に出たようなものだ。このアミラの姿や歌唱だけでなく、マリア・カラスとアミラを対比するような場面にも出くわすことができた。往年のマリア・カラスの顔近年のマリア・カラスが歌唱する姿、そして往年のマリア・カラスが歌唱する姿なども堪能できた。

 わが家の庭でも、ツウツクボーシが鳴き始めていた。

 

25選シリーズ

25の妖怪

やんわりと気付かせるコーナー

貧乏神

貧富格差の背景を連想させる説明

ジャワを連想する空間


妻が最も喜びそうな土産

とても不思議がり

21世紀の奇跡が唐突に世に出た

往年のマリア・カラスの顔

近年のマリア・カラスが歌唱する姿

往年のマリア・カラスが歌唱する姿