「離れ」
|
|
この離れを造ったおかげで、人生を左右するほどの思い出が5つもできた。 最初の1つは、バーマンさんとの触れ合いだ。社会人10年目に、彼女の提案でこの一室を造ったが、彼女は生涯の恩人になった。バーマンさんとは仕事の関係で知り会ったが、その死の知らせを受けるまで20年近くもの付き合いが続いたし、2人の終生の友達ができた。 バーマンさんとの仕事の関係は、3年ほどで切れたが、彼女がその後の交流を望み、商社を私が辞めた後も、招聘に応じる条件の1つにわが家での滞在を付けた。おかげで個人的な付き合いが始まる。 彼女はイギリスのジーンズメーカの企画担当役員だったが、出会って2年目頃に「ユカタキ、ホームステイを受け入れろ」ならば、英語で会話ができるようになるし、「ユカタキの視野がもっと広がる」と提案。離れを造ることになった。ついに彼女は「タカユキ」とは呼んでくれなかったが、これも強烈な思い出の1つだ。再会のたびユカタキにもどっていたし、妻もヨに力点を置いた「サヨゥカ」で呼び通した。 この離れはこれまでに7人の外国人留学生を受け入れたが、私たち2人は「リズさんの部屋」と呼んでいる。それは、ホームステイ第1号のリズさんとの付き合いが今日まで続いているからだろう。だから私は英語に堪能になったかと言うと、まったく逆だ。これも強烈な思い出と言える。 リズさんは私から日本語や日本文化などについて学ぶのに熱心で、英語を一切用いなかった。おかげで彼女は今、日本文化にも関わる大学教授になっており、時々学生を引率してアイトワを訪ねてくれる。私は渡米時にリズさんを通訳として用いたことがあるが、思うところがあって、いつしか私は英語を話さない人になった。その分の精力の日本語に割き、より日本人らしくなることにした。 そもそも、なぜバーマンさんと知えたのか。それは、元を質せば、私が勤めた商社の繊維部門が構造的不況にさいなまれたおかげだ。私は斜陽化にあった繊維部門の起死回生策を提案し、採用された。入社4年目の若造が、わが国の既製服化を推進する提案をし、それがキッカケで私は部門役員会にも陪席するようになった。その席で、私の提案は新たな競合相手を生じさせ、その最右翼はオンワード樫山である、となった。そして、この競り合いに勝てるか負けるかが話題になった。 すかさず私は、私見を述べた。「競う相手ではなく、学び合う相手、助け合う相手になるべきだ」と提案すると、次のように事が運んだ。「そんなこと出来るのか」「出来る、出来ないかではなく、やらないといけない」「ならばやってみろ」となり、その策は一任で、許可された。伊藤忠には信念を自由に述べてよさそうな雰囲気があった。 オンワード樫山は日本で最初に紳士既の既製服化に取り組んだ企業であり、わが国の既製服産業の優であった。しかし、私の目には、わが国の本格的既製服化の潮流から見ると、早晩潮目から外れるに違いない、と見えた。そこで、想うところを、つまり「ウールのカシヤマから、コットンのカシヤマに転換すべし」との提案書を用意し、携えて、乗り込んだ。 最終決済は創業者から取る必要があった。その説明役を私は仰せつかる栄誉を得た。その時の樫山純三社長の即断即決は、今も強烈な印象として脳裏に焼き付いている。即断即決する力や度量の大切さ、つまり常日頃の観察を怠らない学習力を、いやほど思い知らされた。 「GO!」となったおかげで、イギリス企業との技術導入契約が成り立ち、バーマンさんとの付き合いや、樫山の窓口担当となった小池さん、そして留学生のリズさんとの出会へと結び付いていったわけだ。その縁が、バームクーヘンのごとき良き印象を私の心に焼きつけることになる。 小池健司さんとは、イギリスだけでなく、フランス、スペイン、あるいはデンマ−クなどにも一緒に出張する仲になった。やがて友人付き合いになり、今も続いている。もちろん、悔しい思い出も作った。それは、2人して無知と無教養を晒した思い出だ。 小池さんとはパリの北西方向にあるアミアンにも幾度か出かけ、いつも短期逗留した。そこで1度はわざわざ案内までされながら、「デカイですね」と驚いただけで終えた聖堂があった。後年、知ったことだが、それは欧州の5大聖堂の1つアミアン大聖堂であり、ゴシック建築の優であった。なぜ「中に入りたい」と言えなかったのか。今も2人して悔やんでいる。 それにしてもバーマンさんは何かが違っていた。やがて、元は南ア独立運動の闘士であり、イギリス人の拷問にも耐えた人だと知るところとなった。それがなぜか、イギリス人の男に誘われ、その妻となり、なぜかオックスフォードにあったヴィクトリア朝時代の貴族の館の一角に住んでいた。ここら当たりも彼女は私と英語で話し合い、理解を深めあいたかったのだろう。 今、「離れ」は空いているが、夫婦のいずれかが闘病生活に入った時に備えている。 |
|
離れ |
|