理想郷

 

 訪れて初めて多々気付かされることがあった。その第1は古民家の豊かさだ。中古のマンションは神戸(の企業に勤めていた)時代に買い求めて住んでおり、体験していた。だが、かくなる田舎の古民家を居抜きのごとくに買い求め、そのまま住みつき始めた人のお宅を訪ねたのは初めてだ。それだけに、ワクワクドキドキするような喜びも感じた。

 100年ほどにわたって、3世代住宅として活かされてきた古民家だろう。家族構成の移ろいによって、時代の流れに即して、あるいは生業の様子に合わせてなど、そこにさまざまな歴史や工夫が読み解けそうだった。その幾世代かの人たちが重ねた年輪を、乙佳さんは丁寧に活かしながら住み始めていた。

 「私が建てていたら」と、乙佳さんが語り始め、「こんな台所にはしなかった」とつないだ。だがこうした古民家に出会えたおかげで、新しい何かに気付かされた、と言いたかったようだ。狭いし、流しも小さく、ガス口も少なそうな台所を、とても愛しみながら活かしている。

 「そうであったのか」と、思い出した名言がある。20世紀建築家の優となったコルビィジェの「住宅は住むための機械」であるとの言葉だ。これまで私は、この言葉を残した建築家を20世紀の「あだ花」のように感じて来た。だがこの度は、時代を画する凄い建築家であったのかもしれない、と思い直し始めた。これまでの私は、このコルビィジェの言葉を、「古今東西、住宅とは、住むための機械である」との意味で理解していた。だが、そうではなかったのではないか、と思い直し始めたわけだ。

 ひょっとすれば、コルビィジェのこの言葉には、省略された部分があったのではないか、と気になり始めたと言い直してよい。もっとも、その省略された部分を補足した次のような一文を見たことも聞いたこともないが、コルビィジェがこうした意味で「住宅は住むための機械」だと述べていたのだとすれば、私はとんでもない早とちりをしていたわけで、まさに大バカモノということになる。

 その省略部分を補足した言葉とは、こうだ。「20世紀は、人間を機械のごとくにしてしまい、住宅を生きるための機械にした。速やかに住宅を生きるための道具、つまり住人の身体の延長のごとき住宅に戻すべきだ。そうした次代を創出し、次代に移行しなければいけない」

 こういう意味で工業文明を揶揄し、住宅を住むための機械にした人々を危惧し、コルビィジェが「住むための機械のごとき住宅」を否定的に見ていたのなら、私は人物評を改め、反省し、恥じ入らなければならないことになる。

 乙佳さんが住み始めた古民家には、二階が居住区になった離れがあった。ここで住み継いできた住人も出火の恐れに備えていたのだろう。薪で沸かす五右衛門風呂は別棟だった。昔はここが台所であったのではないか、と覗き込んだ小さな別棟もあった。

 ついこの間まで、ここの住人は自給率がとても高い生き方をしていたに違いない。五右衛門ブロと便所が一体の小さな建物の下手の方に、道具がいっぱい詰まっていそうな大きな倉庫もあった。

 要は、ついこの間まで、住宅は「生産の場」であったが、工業文明は住宅を「消費の場」にしてしまった。ここで問題は、今後はいずれが望ましいのかが問題になる。

 これらの建物と、母屋の間には大きな中庭があり、コンクリートのタタキで舗装されており、一人息子で園児の大ちゃんが足踏み自動車を縦横無尽に駆ったりしていた。

 ここで合流することになっていた瞳さん夫婦は、遅れて到着する予定だったから、私も親方(と呼びたくてしかたがない乙佳さんの夫)に、山手の敷地を案内してもらうことになった。そこは一段の高みで、振り返ると母屋が望める。一帯にはヒノキの一種が何百本と植林されていた。

 その下枝をここに住み始めてから切り落し始めた、という。その下枝を切り落せた範囲は陽がさしており、ワラビ畑のごとしになっていた。その向こうの真っ黒なところは、下枝をまだ落せていないようだ。親方は、下枝落としではなく、近いうちに、根元から切り取ろうと思う、と語った。

 実は、私は、親方の孫の時代になると、日本は林業で活きて行かざるを得ない時代になっている、と睨んでいる。だが私も、親方の立場なら、農園や果樹園にするだろう。だから意見は控えた。

 


二階が居住区になった離れ

二階

道具がいっぱい詰まっていそうな大きな倉庫

一人息子で園児の大ちゃん

振り返ると母屋
 

ワラビ畑のごとし
 
 散策の後、玄関に誘われ、足を踏み入れると、正面は「居間として使われていた」と思われ、乙佳さんも居間にしていた。右隣の部屋から乙佳さんの声がした。そこは台所だ。居間の左隣りに座敷があり、「遅昼」の席が既に準備されていた。その横に納戸(?)のような部屋があった。

 やがて瞳さん夫婦が到着。3人の主婦が台所仕事に就いた。3人の夫は座敷に陣取り、よもやま話を始めた。要は、3人の女性は住宅を「生産の場」として活かし、男どもは「消費の場」として楽しみ始めたわけだ。

 つくはづく、瞳さん夫婦と一緒にたずねることにしてヨカッタと思った。瞳さんと乙佳さんも素敵だが、この2人を惹きつけてやまないその2人の夫が出会う機会にも出来たのだから。この人たちに私は、生きとし生けるものを愛しむ心を学ぼうとしている。

 そこに、先に到着して一仕事済ませた様子の大工さんが合流。方丈の主たる大工仕事に関わった大工さんだ。この人にも私は真の職人魂を教えられている。やがて総勢8人の料理が、次々と運び込まれ、楽しいひと時が始まった。

 岩ガキはむくのが大変であったに違いない。いずれもが、とても手の込んだ乙佳さんの手料理で、にぎやかに並んだ。ちらし寿司には、サイの目に切った刺身が盛りつけられていた焼き魚に至っては、妻と共感し、妻は感心だけでなく関心も示した。

 ユックリとった「遅昼」の後、今度は下手の一帯を見学するために出た。まず、材木置き場があった。そこでは大ちゃんが自家用車で先回りして待ち受けていた。大きな仕事場もあった。一帯には田園が広がっており、見知らぬ野草もたくさん見受けられた。

居間の左隣りに座敷

楽しいひと時

岩ガキはむくのが大変であったに違いない

乙佳さんの手料理

 

サイの目に切った刺身が盛りつけられていた

焼き魚に至っては、妻と共感

材木置き場

大きな仕事場

 

見知らぬ野草
 
 親方は私の所望に沿い、氷室を目指して先導してくださった。その昔、この地域では冬の間に氷を備蓄し、真夏に毎日、宮中まで運んでいた。乙佳さん一家は、ここでひと冬を経験しているが、とても雪が深くて、零下○○度になる、と聞いた。だが、信じられない。問い直してから文字にしたい。

 その道中で、瞳さんのご主人が、大ちゃんにカエル釣りを教えた。ネコジャラシの穂に細工をして釣るわけだが、私にも釣れた。カエルの目の前でちらつかせると、かぶり付き、釣りあがる。カエルの目と嗅覚は(これを虫とでも見まがうのだから)たいしたシロモノではないのだろう。

 瞳さんのご主人も、親方と同様に生業型の人だ。単なる勤め人(として教職の身にあるだけ)ではなく、農業の名人だし、淡水魚の飼育にも秀でている。

 何とも楽しい散策となった。復路は乙佳さんの畑の横を通る道を選んだ。材木置き場が遠望できた。「ワー、もうこんな時間だ」トビックリした。私には、帰宅後のアポイントがあった。そこで、急ぎ午後のお茶の時間にして締めくくった。離れの軒下にスズメバチが大きな巣を張った跡もあった。大ちゃんは幸せだなぁと思った。これからの時代の子どもに残すべき資産は3つ、と私は思う。まず、免疫力を身に着けておくことだ。

 ふと、私は3000坪計画に取り組んでいた場合の、その後を連想した。だがすぐに、妻の助言で断念しておいてヨカッタと思った。だから「こうして」と考え始めた。

氷室を目指して

 

真夏に毎日、宮中まで運んでいた

大ちゃんにカエル釣りを教えた

乙佳さんの畑

材木置き場が遠望できた

急ぎ午後のお茶の時間にして締めくくった

軒下にスズメバチが大きな巣を張った跡